館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

ジャッジメント・短編7話・そして僕はいま大きな「クロスロード」に立っている。

2005-12-14 20:09:37 | 生活雑感
以下長い独り言が続く。オ サムの与太記事である。訪れた皆さんに冒頭から謝る。
時間が無い方は御閲覧なさりませんよう、お願いいたします。

第一話。(働きたいのか?)
今僕は「ニート」について考えている。
極めて素朴な疑問を、大企業の末端で働く彼女にぶつけてみる。
「週に3回、まあ2時間の残業って大変かね?」
「それさあ、サービス残業?」
「いや、賃金は払われるよ」
「じゃあ、寝言だね」「払われるならやりたいってのが、今時だから」
「将来の不安もあるし、今のうち稼いでおきたいさ」

第2話。(ニート)
突然(これは突然しかないか?)宝くじで3000万円。似たようなもんで、親の遺産が入る。年収500万・まあ極めて贅沢せず生活をして300万。そうすると10年分の突然の事件ではある。ニート・・・・・・。今僕はニートを考えている。
人間、或いは人類、或いはホモサピエンスにとって「労働」とは何か?この哲学は難しい。ある思考をめぐらす。
① 文明の発達(行過ぎた開発などの要素は省く)その結果としての「豊かさ」の享受を考えてみる。すでに僕らは「誰彼の労働」のお世話になって、確実に「享受」の恩恵を受けている。電気・水・あなたの好きな「旅行」の交通機関・道路。他者の労働、先代の人類の労働の恩恵無しに、今の生活は成り立たない。
② 植物界或いは菌類の「共生」「寄生」について。毛細根にその根或いは菌糸をからめ栄養を採りやすくする代わりに、養分をもらう。「キャベツにはこべ」「松にマツタケ」「落葉松にハナイグチ」これは共生。土の中で羽ばたきを待つせみにとんでもない菌糸がからみつき本体を殺してキノコを出す「冬虫夏草」。弱った木に「ナラタケやヒラタケ」その菌糸はあっという間に木を枯らす。これは「寄生」。
自分の「生活の柄」がその哲学に基づいて、「素にして貧にあらず」必要な多くを、自分の技でそろえ、揃えられない物わずかを、労働の対価を使って(お金のことです)他者の労働の「現象形態」(商品のことです)を手に入れる姿は、結構崇高と思うが、そのような「哲学」を持ち合わせず、「自分には自分の生き方がある」などといいながら、しっかり他者に寄生する姿はみぐるしい。言い訳はするが、しっかり「寄生」していることを気が付かない隣人の存在。ありそうでないかい?


第3話。(指揮・命令系の存在。その必要性の有無)
「会社」という組織がある。ホモサピエンスの多くがそこに所属して生きている。従業員50名余りの会社がる。設定が具体的のほうが、親近感が増す。
① 極めて普通な業務上の指示を上司が出す。出す方の権限・出された方の遵守義務。この存在や如何に?
② 上司の「えこひいき」「人の好みでの態度の違い」・・・積年の不満が「ささやかな反抗」となって「明日、他部門に応援に行ってくれないかな」の返事に「行ってもいいけど、疲れて翌日休むかもしれませんよ」などと応える。
けっこうありそうな日常にうんざりする。この辺りは、「どっちもどっち」的な要素が加わるのでややっこしいが、間違った者同士の論議は正しい結論は出ない。
どうして、面と向かって、人間として対等に「人間の尊厳」を天秤にかけながら向き合えないのだろう?皮肉や尊厳を傷つけるような物言いで「生む」ものは多分無い。「希望」を空に挙げる語り口・無償な姿での語り口、僕も問われているが、あなたも問われている。その姿勢に上司も部下も無い。
「或る決定権」は確実に組織の或る部分に属する。「子供に言い含めるような」やり方でその決定を伝える姿は結構滑稽だと思う。決定された事項の結果責任は「決定者」が負う自覚ぐらいはあるだろう?だから「指示」出来るってもんだ!

第4話。(ひととしてなあ?)
ある任意な組織が存在する(好きで。あるいはその姿に楽しさや、意義を感じてやっている。よって、対価は求めない)。その理想を実現する様々な取り組みで「いいことばかり」は無かったし、わずらわしさも味わった。しかし「やっている事、或いは理想」の素敵さはある。もちろん、抜けるも自由・続けるも自由である。
「一緒に釜の飯を食う」類である。少し窮屈と感じて、或いは「生き様を天秤(今自分のやりたい事)」に乗せて、重さを量って「離れる」或いは「一時的離脱」(中心からお手伝いの位置への転換)を行う。任意組織には当然その「自由」はある。しかし、苦楽をともにした人間関係がそこに無いか?支えあった関係から、1つが欠落する時「その欠如を埋める」営みが残された者へ課題として残る(そんなに難しい事は言っていない。3人で分担していたものが2人になったら、量は増える類とデフォルメしても良い)。そこへの配慮は実は結構大切と思う。説明責任をしっかり果たして、自分のことを分かってもらって、関係の再構築をする。多分、そうすれば「新しい、もっと深まった人間関係」を作れると思う。そんな「補い合い」をしてきたはずの隣人にしっかり裏切られると、ダメージは大きいと思う。この場合「去る」側に明らかに「説明責任」が存在する。責任を果たさない事態は山ほど味わったけどね!
その場合でも、確実に「残された者」のほうが、人間的に成長するから不思議だが・・・・

第5話。(現代上司論)
1つの懸案があり、それを目の前にすると、そこに「否応なしに挿入される」事態にうまくバランスを取れない事はある。
目前の仕事・しかし「突然」が舞い込む。1つどころか、「聖徳太子」状態でだ!理性が勝負だ!①重要度で序列をつける。②所用時間で序列をつける。③有り余ったら「他人に頼む」・・・・しかし彼は「枝葉末節」のやや末節・・彼のすでに立てていた、スケジュールを優先する。結局「誰かが」尻拭いする。以下シナリオ。
困って「上司」に相談する。その上司は「突然」が嫌いで、「いま忙しいから後にして」などと、「自分マター」で仕事を続ける。信頼の瓦解の現場である。部下の「手に負えない困難」に立ち向かうから、上司が出来るのだ。
 生産現場では、結構1日の分量は量りやすい。明日は分かっている。誰かが休んだり・機械のトラブルなどなければ「読める」。そして「計画」をこなせば100点なのである。常に他者との交渉や、先々の計画に携わる仕事はそうは行かない。管理の仕事などは、不具合が予測できない時系列で仕事していると、言っていい。「そのためにあんたが存在して」「結構高い給料をもらっている」と言う訳である。仕事のモードが乱高下する。極論では「何もない日が存在したり、24時間で処理できない日」が存在する。

第6話。(尻拭い)
彼らは、得意先から仕事を請け負ってきた。或いは「それなりの返事をしてきた」と想像できる。しかし「いざ具体化」の時に、例の末節に終始し「モラトリアム」している。まあいつもだが・・・
結局「調整をする」。気が付かない間にこの「ばからしさ」に付き合うことから来る「疲れ」が積層する。あんたの仕事くらいはあんたがやってよ、である。
材料を調達するにも、労働力を確保するにも、常に「人との」交渉が含まれる。或いは交渉そのものが、内容となる。昔・性能のいい機械に向かって「こいつは暑い寒いを言わず黙々と働いてくれる」と語った人がいたが、笑えない。

第7話。(クロスロード)
「自分のやりたいことは、やったほうがいいよ」
「結局1度しか生きられないし、死ねないから」
「人間関係に疲れた?」
「だって、好きで調整役やってるんじゃないの、結構?」
確実に「他人によって生かされてる自分」は認識する。いろいろな人にお世話になっている。その距離感はしかし難しい。1ヶ月の間に、次から次へ「解かなければならない、結び目」がやってきて、きっと僕は疲れていると思う。真剣に「今の仕事」にけりをつけなければと思っている。「非自立な大人」「無神経な隣人」に付き合って、この先「良心或いはホモサピエンスとしての最良の部分まで」傷ついて、いいはずは無い。





  
コメント
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