僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

ともだち

2011年05月07日 | 思い出すこと

高校時代、K という、飛び切り仲の良い友人がいた。
僕が通った高校は私学の男子校で、3年間クラス替えがなかった。
だから、その友人ともずっと同じクラスで、3年間、毎日のように交友を重ねた。

まず、趣味がよく合った。
お互いにハイキングが好きで、年中、毎週のように六甲山へ歩きに行き、
連休の時などは、キャンプで1泊したことも何度かある。

僕が、自転車で京都へ行こうかと誘うと、「ええで」 と乗ってくる。
当時の、変速機も何もない普通の家庭用自転車で、大阪~京都を往復した。

彼は時々、僕の家にも遊びに来た。
彼がわが家の小さい風呂に入ったときのこと。
シャンプーを切らしていたことに気付き、僕が風呂の外からKに、
「おまえ、頭は何で洗うてんねん?」 と聞いてみたら、
「そら、手で洗うてるに決まってるやないか。 タコやあるまいし、足で洗えるかいな」
と、大きな声で答えたものだから、裏にいた隣家のおばさんたちに聞こえたらしく、
「この子らおもしろいわ。 漫才みたいなこと言うてるで」 とケラケラと笑っていた。

そんなふうに、僕たちの会話は、いつも漫才だった。
彼がボケで、僕が突っ込み、という役どころだった。

とにかく、ハイキングへ行くときも、2人でふざけっぱなしだ。

あるとき、バスに乗っていて、降りるところが近づいてきた。
僕が席を立ち、運転席の後ろまで行き、棒をつかんでいると、
そこへ後ろから片手がグイと伸びてきて、僕が持つ棒の上の方をつかんだ。
Kの手だ。 よし驚かせてやろうと、その手の指を、僕はカリっと噛んだ。
「痛い!」 と声を上げたのは、Kではなく、見知らぬおじさんだった。
「あれぇ?」 と思って振り向くと、Kはそのおじさんの後ろに立っていた。
「何すんねん、ほんまに」 とそのおじさんは、怒るというより、気味悪がった。
「すんません、すんません」 と平謝りの高校生を見て、アホらしくなったのか、
そのおじさんは、「けったいなヤツやで…」 と言いながら、バスを降りた。

この話を思い出すと今でも笑ってしまう。 人に言うと、さらに大爆笑される。

また、僕たちは2人とも、日曜日夜のテレビ 「シャボン玉ホリデー」 が大好きだった。

父親のハナ肇が病に伏しているところへ、双子の娘のザ・ピーナッツがやってきて、
「おとっつぁん… 元気を出してね」と慰める、毎週定番のあのコントがなつかしい。
「お前たち、いつもすまないね~」と、今にも息絶えそうな震え声でハナ肇が礼を言う。
「そんな…、おとっつぁん、水臭いこと言わないで」と、思わず涙を流すザ・ピーナッツ
哀愁に満ちた音楽が、バックで流れ、しんみりとした空気が漂う。 
…と、そのあと、いきなり爆笑ギャグが展開されのである。

あぁ、これを知っている人って、今はめっきり減ってしまっただろうな~。

植木等の「お呼びでない…? こらまた失礼! どひゃ~ん」
…というのにも、毎週お腹を抱えて笑っていた。
僕がテレビの前でひとり大笑いをしていると、父と母は顔を見合わせ、
「何がそんな面白いねんやろ。 けったいな子やなぁ」 と僕を眺めていた。

「シャボン玉ホリデー」 の翌日の月曜日は特に、K と会うのが楽しみだった。
教室で顔を合わせると、お互いに開口一番、
「見たか~、見たか~、きのうのアレ」 と、2人でコントを再現する。
そして、「げへへへへへ~」 と大笑いする。
それが、月曜日朝一番の最大の楽しみであった。

  …………………………………………………………………………………

そんな漫画みたいな3年間を終え、僕たちは卒業した。
卒業後、しばらくして、Kは大阪市内のとある駅前の、
自宅で営んでいた洋傘店を継いだ。

僕が学生だった頃、よくその店を訪ねて行った。
Kは、「お、よく来たな~」 と喜んでくれ、いつも近くの喫茶店に誘ってくれた。

Kが結婚したとき、奥さんと2人でわが家に遊びに来てもらったことがある。
奥さんは活発な明るい人で、しっかりしておられるなぁ、という印象だった。
どこかとぼけた味のある K とは対照的で、バランスのとれたいいカップルだった。

やがて僕も就職して家庭を持ち、会う回数も減り、年賀状のやり取りが主となった。

年賀状といえば、思い出すのは、1995年に僕がパリへ行ったとき、
早朝、エッフェル塔を背景にジョギングしている写真を、同行の人に撮ってもらった。
その写真を年賀状に使ったのである。 誰が見てもエッフェル塔だとわかる写真だった。

しかし、翌年、K から来た年賀状には、
「去年の、通天閣をバックに走っている写真はなかなかよかったね」 と書かれてあった。

そして次の年、僕はKへの年賀状に、
「あれは通天閣やおまへんがな。 おフランスのパリのエッフェル塔でっせ」 と書くと、
さらに次の年、Kからの年賀状には、
「あれは、どこから見ても通天閣やで」 とまたまた書いてきたのである。

4年がかりで、僕とKが交わした「会話」だった。

やがて彼からの年賀状が来なくなり、僕たちの交友も途絶えた。

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ことし、大型連休の初日だった4月29日は、いいお天気に恵まれた。
僕と妻とモミィは、大阪市内の公園へ遊びに行こう、と電車に乗った、

降りた駅が、偶然にも K が出している洋傘店のある駅だったことを思い出した。

あ、そうそう。 K とはもう10年以上も音信不通である。 
元気にしているのだろうか、と、急に顔を見たくなった。

「ちょっと待っといて。 K の店をのぞいて、びっくりさせてやってくるわ」

…と、妻に告げて、駅前の商店街の一角にあるKのところへ走った。
シャッターが下りていることなく、すっかりお洒落になった洋傘店があった。

こんにちは~と店に入ると、奥で女性が向こうを向いて書き物をしていた。
「あ、いらっしゃいませ」 と女性が振り向く。
「あのぉ…」 と、その女性を見て、遠い記憶がよみがえってきた。
K の奥さんである。

「わたし、K 君の高校時代の友人の…」
とまで言ったら、奥さんは目を丸くして、
「あらぁ、○○さんですよね! いやぁ、お久しぶりですぅ」
そう言って、こちらへ飛んできた。

「主人から、あなたのお話は何度何度も伺っていました」
と、奥さんは懐かしむような目で、僕を見つめ、
「年賀状もいただいていたのに、一度お手紙を出さなくてはと…」
と、話を続けたのであるが、僕が一番聞きたいのは…
「あ、それで、K は…元気にしていますか?」 ということだった。

しかし、奥さんの話は、どこかおかしい…と思った。

「主人は、6年前に亡くなりました」 と聞かされたのは、その直後だった。

「は…?」
「胃がんだったんですけど、最後まで痛がらずに、すーっと、眠るように…」

言葉が出なかった。

でも、奥さんは、6年の歳月が癒してくれたのか、楽しそうに K のことを話した。
そして、店の隅の棚から写真のアルバムを出してきて、
「亡くなる10年前から胃がんを宣告されて、病気と闘う生活でした。
 でも、その10年間で、思い切り旅行もしましたし、楽しかったですわ」

6年前に亡くなり、その10年前からがんを宣告されていた…
ということは宣告されたのが16年前で、例のエッフェル塔の年賀状を出した年だ。

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Kは、病気と闘いながら、「あれは、どこから見ても通天閣やで」
などと、年賀状に書いていたのか…。 

ちょいと店をのぞいて、「おい、K よ、僕や。 びっくりしたやろ」
と驚かせ、 そのあと 「お呼びでない…? お呼びでない…? こらまた失礼!」
と、ギャグを飛ばしてやろうと思っていたのに…。

K よ。 ちょっと早いこと、逝き過ぎたんと違うか…?

それからな。 あの年賀状の写真は、ほんまに、通天閣と違うねんで。

 

 

 

 

コメント (4)
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