めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

クレーマーが育つ環境

2016-05-18 17:48:28 | 社会

不況が長く続いたり、人々の生活が疲弊してくると、心の中に
ゆとりを失ってしまい、苦しみの原因が、全て自分以外のものにあると
思い込んでしまう人が増えてきます。
世の中の流れに付いて行けず、何をしても思い通りにならないと、家族から
友達から、更には、社会から見放された様に思い込んでしまい、人知れず
自身の心を閉ざしてしまう人も多い様です。

一度心の闇に入り込んでしまうと、周囲から問いかけても、自ら外部と

接触したり交流したりする事は、非常に難しくなります。
そうなると、判断基準が自分自身でしかなくなるため、自分の存在価値を
否定してしまい、自傷に至る人も出てくるのです。

しかしながら、問題は、この心の苦しみの原因を、自分以外の人に向け

攻撃的な態度に出てしまう方が増えつつある事です。
ネット社会が世の中を動かすようになると、そこに出てくる人々を攻撃し
ブログなどを炎上させることに喜びを感じる人も出てくるのです。

自らは、決して表に出る事無く、ネットに登場する人々を平気で傷付け

その行為で、苦しむ人を見る事で、自らの存在を自己確認しているのです。
心の闇に居る人達は、誰にも評価をしてもらえないと言う悲しみを抱えていて
自分の存在価値を自らが確認しないと生きていけません。

自らを傷つけたり、自殺する事は出来ず、悲しみや苦しみを人に与える事で

満たされない欲求を解消しているのです。
昨今多くなったクレーマーも、世の中が生んだ心の闇を抱える人達であり、
自分以外の人が嫌な思いをする事で満足感を得ているのです。
しかし、人を傷つける事で、自分の存在を知らしめる行為は、人として最低であり、
その行為は、誰からも支持も称賛も得られないのです。

人類が行なう最低の行為は、戦争と言えます。

これこそ敵を苦しめ傷つけ殺す事で、自分たちの存在を高めようとするものです。
その結果は、どうでしょう。
歴史が示す通り、その後の苦しみは、勝者敗者に関わらず、何代にも渡って
人々を苦しめるのです。

今の世の中で問題は、中々人々の生活が豊かに成らない事や、欲しいものが

手に入らない不自由な生活では有りません。
自分以外の人を認められない、自分だけの満足を求める人が増えている事です。
そのためには、人が傷付こうが、苦しもうが、何の心の痛みも生まれません。
むしろ、人の不幸を喜び、悲しみを糧にする、それこそ、人としての存在価値がない
最低の人間なのです。

日本中が様々な災害に襲われ、毎年、多くの方々が日常生活を奪われています。

今や、他人事ではなく、明日は我が身と成る可能性が有るのです。
でも、この様な災害は今に始まった事ではなく、日本は、有史以来、数えきれない程
多くの災害に襲われて来たのです。

しかし、どんな苦しみも悲しみも、人々はお互いに助け合い信頼し合って

克服してきたのです。
地震も津波も、数々日本を襲っているのです。
なぜ、そんな災害列島を見捨てず、人々は、歴史を繋いできたのか、
それは、私達日本人が、自然を愛し、人を愛し、万物を慈しむ心が有ったからです。

誰かが災害に遭えば、我が身が被災したかのように思い、手を差し伸べるのは

当たり前の事であり、悲しみも喜びも分かち合って生きて来たからです。
古の昔に比べ、今の時代、遥かに豊かな生活を送っているはずです。
例え災害に遭っても、様々な物資が災害地にもたらされ、国や自治体の復興計画により
また元の生活に戻って行けるのです。

しかし、問題は、太古の昔に有った、人々の心の繋がりが非常に弱い事です。

そのため、被災者の本当の声が聞こえない場合が多くなっているのです。
この事は、災害が有ったからと言うのではなく、今の社会が、便利にはなっても
人々の心を孤立化させ、心の闇にあえいでいる人を生んでいるからです。

どんなに近代的な生活をしても、私達の心は、太古からあまり変わって居ないのです。

御互いに慈しみあって生きてきたのに、社会が便利になって来るにつれ、
次第に便利さ生活しやすさが幸せの指針と成り、外見的な価値に振り回される人が
多くなっているのです。

多くの方が、社会の流れに合わせ、そのシステムに合う様に勉強し仕事をする様に成りました。

そのため、本音でやり取りする事が少なくなり、誰もが、心の闇を持つ様になってきたのです。
様々な教育と情報により、誰もが、自分の役作りに注意を向け、その演ずる様で
自分の存在価値を世の中に示す様に成ってしまったのです。

しかし、この演ずる環境も能力も無い人は、常に、弱い自分の心に苦しむのです。

そんな弱さを誰かが認めてくれれば助かるのですが、アドバイスは、演ずることの重要性であり
社会的な外見の構築です。
家庭でも学校でも、はたまた、会社に於いても、誰もが、外見的な作られたもう一人の自分を
作り上げる事に専念しています。

心の中に籠ってしまった人は、その外見で評価を得られる人々を見下します。

しかし、直接にその不満を言う事が出来る程、心は強くないのです。
そして、増えてくるのが、自分の存在を隠したクレーマーであり、公共のネット上で、
炎上を喜ぶ人々です。

彼らの行う行為は、決して人を傷付けているのではなく、自分の正当性、存在を認めさせる

手段であると信じているのです。
彼らの共通の行動は、自分自身を表に出さない事です。
何故なら、自分の弱さを良く知っているからです。
でも、彼らを否定すれば、彼らは、より頑なに人々の嫌がる行為を続けようとします。

一体どうしたら無くせるか、と言えば、今の社会が生んでいるのですから無くならないのです。

日本人が、便利で近代的な生活を目的とする様になった時から、少なからず生まれているのです。
明治以降、産業革命と共に、資本主義経済が中心と成り、日本人の心を育てる自然も社会も
無くなってしまったことが原因とも言えるのです。

今の日本人が望む事、それは、経済的に豊かな生活、そしてその生活を維持できる

地位や名誉、それさえあれば、幸せに成れると思っている方が多くなっているのです。
極端に言えば、大金持ちになれば、幸せな人生が送れると思っている人が多いのです。

この事は、日本人が、物や金だけを求める人種になったと言うのでは有りません。

人を思いやる、人の気持ちを察する社会が無くなったのが原因です。
人々が、慈しむ大自然が減り、人々が心を交流させる社会環境が無くなっているのです。
つまり、社会の在り方が人々の心を疲弊させ、御互いに傷つけ合う環境を生んでいるのです。

人々は、自分のセリフを持ち、その日の立ち振る舞いを演じ、その出来に神経を使います。

しかし、他人の行動や思いには関心が無く、自分の行いにしか関心が有りません。
日常的にも、同じ毎日が繰り返されるも、まともに相手の顔を見ないで生活する人が
殆どです。顔は見ていると言っても、それは、作られたお面の部分であって、
本当の顔は、心の中にあります。

顔を合わせる時も、手を取る時も、御互いに助け合って何かをする時も

五感を通して心を気遣いながら生活する事を日本人は忘れている事が多いのです。
ネット社会になって、様々な社会問題が噴出してきましたが、人との関わり合いの本質が
失われなければ、どんな社会でも人々は幸せに生きる事が出来るのです。
世の中の問題や苦しみ悲しみを作っているのは、間違いなく私達人間自身です。
社会が発達しネットが中心と成ろうとも、本音を気遣う気持ちが有れば、
私達日本人の、美しい心は失われないのです。





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