めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

災害復興と言う第二の不幸

2018-06-19 12:53:09 | 日本人

地震から一夜明けて、世の中は、あっと言う間に新たなる情報に飛びつきます。
しかし、被災者たちは、これからが大変なのです。
まず、いつもの様な生活に戻すには、かなりの苦労を強いられます。
家族も自宅も、何の被害を被らなかったと言え、自分を取り巻く環境は大きく変わり
例え、学校や仕事に向かおうとしても、地震による爪痕は、いつも通りのルーティンを
こなさせてくれません。
交通機関の混乱から、仕事関係に於ける地震に因るトラブルで段取りが掴めません。
例え、うまく仕事場に就いたとしても、関係各所に於ける混乱は、自らの仕事に
多大なる影響を与えているのです。

当然、さまざまな復興事業が行われ、しだいに元通りの生活を取り戻す事になるのですが
それまでの時間と苦労は、経済的損失として降りかかって来ます。
震源地に近かったとはいえ、被害を免れた方は多いと思いますが、不幸にも怪我をしたり
命を落とした方や家族にとっては、これから、心と身体が癒えるまでどれ程の期間を要するか
災害の後の一番の問題で有り、周囲のケアが如何に適切であるかが大切と言えます。

これからもこの様な震災は幾度となく日本人に降りかかると思われますが、その度に思う事は
災害復興に於ける被災者と支援者たちの心の温度差で有り、物事の価値観の違いです。
多くの場合、いち早く物理的支援を行う事が先決と思われますが、被災をした時、一番の問題は
被災者たちの心が一番傷つき、非常に不安を抱えている事です。
地震の恐ろしさもさることながら、自分の身体だけでなく、震災後の生活に付いて、真っ先に
不安を感じているのです。増して、身内に怪我をしたり、悲しみに暮れている人がいるとしたら
その心労は計り知れないと思われます。

とは言え、どんなに大きな地震が来たとて、いずれ、街が復興し、またその地で生きて行かねばならず
その為の経済的な糧と精神的なゆとりを如何に取り戻すかが大切です。
大災害に見舞われれば、日本中から多くの救いの手が差し伸べられ、更には、国や企業からも多大な
援助が行われるのですが、被災者たちにとっては、心も身体も傷ついている事も有って、何事も
感謝の気持ちで受け取るものです。
所が、復興事業とは、メンタル的な援助と受け取られがちですが、現実には、事業であり、
利益を求める人達が多く集まると言う事なのです。

困っている人達を助ける博愛的な感覚と捉えられがちですが、その裏では、膨大なる資本が動き
様々な利害関係が交錯し、災害地に関わる事で大きな利益を得ようとするのが現実なのです。
生活の手段を失った被災者たちにしてみれば、神の手を差し伸べられたように嬉しく思うのですが
その多くが、利益を伴う事を条件に行われる事が前提なのです。
その為、ただ、自分達の被災した街や人々を助けてくれるものと考え、全面的に支援者に復興を
委ねると、後で不幸と成る事も少なくないのです。

支援活動をしている側も、助けていると言う上から目線で仕事をする事から、自分達の利益が上がる
事業として行う事が多く、復興した街が、被災者達が求める街並みとは全く変わってしまって、
一体、日本のどこの街なのか、解らなくなってしまい、故郷が復興したと思ったら、まるで他所の街に
住んでいる様な、心の安住が得られない場合が多いのです。
近年、日本中で発生した大災害の後の街は、いずれも、業者とそれを進めて来た関連事業や国が、
勝手に創り上げた、故郷とは程遠い街と成っているのです。その最たるものが、現在変貌しつつある
東北の被災地で有るのです。

災害が起こると、メディアはこぞってその災害の恐ろしさ悲惨さを視聴者達に訴えます。
その為、全国から様々な援助の手が差し伸べられるのですが、この時、本当に善意の気持ちで
何とか助けようとする人も多いのですが、中には、不幸を喜ぶ、金の元と考える人もいるのです。
被災すれば、当然、様々な物資が必要と成り、生活手段が寸断され街が破壊されれば、それを建て直す
インフラ事業が必要とされるのです。
しかし、この復興事業が、支援者や企業の一方的な目論見で行われる事が問題なのです。
多くの利益を生む復興事業は、当然、美味しい仕事として受け取る人も多いのです。

復興事業を、そのまま、支援する人や企業に任せきってしまう事が、未来の不幸を呼んでしまうのです。
被災者の弱みと支援者の強みが、両者に理想的な復興を妨げ、被災者達には、こんなはずじゃなかったという
落胆の気持ちを抱かせるのです。
被災をして苦しい思いをして、復興して更なる不快な生活を余儀なくさせられると言うのが、
日本における復興事業の現実と言えるのです。
生きるも死ぬも、日本で行われる全ての事が、営利的に判断される事に依り、人々の心はいつも不満と
苛立ちが生れてしまうのです。

利益を得る為なら、人の気持なんかどうでも良いとする社会機構が、日本中に蔓延してしまう社会は
日本人にとって本当に不幸と言えるのです。
お金が有りさえすれば何でも許され、お金がなければ、正しい事も簡単に否定されて行く世の中は
豊かな人も貧しき人も共通の不幸を呼んでしまうのです。

そう、いつも人を信頼できない、人間として最も悲しい現実に向かい合わなければならないのです。
如何に豊かな生活をしても、周囲の人は信じられず、信じられるのは、社会的な価値で有り
経済力でしか有りません。
その為、自分の持ち物を奪われないか、常に疑心暗鬼と成り、豊かな生活をすればするほど人が信じられず
常に自分の財産と家族を守る事を考えなければならないのです。

豪華な邸宅を構えようも、周囲を高い塀で巡らし、出かける時も、同じようなレベルの仲間との場でなければ、
普段の街を歩く時は、出来るだけ目立たない、周囲の反感を受けない服装を選びます。
そう、経済社会の典型であるアメリカ社会と同じです。となると、やはり、最終的には、銃を持ち
我が身と家族と財産を守る事しか有りません。

本当に、何と不幸であると言わざるを得せん。誰もが求める地位や財産を得たとて、心はいつも安らがず
人を見たら泥棒と思え、という諺を生きる術としていなければなりません。
日本人は、そんな生活を望んでいるのでしょうか。
自分を生かすために、平気で人を傷つけたり殺めたりすることを良しとする社会を求めているのでしょうか。
しかし、今の日本社会は、銃こそないものの、人の心を平気で踏みにじってもなんとも思わない、利益の為なら
何のためらいもない人達が増えているのです。

国民が自分の周囲の人に怯え、社会的に地位が上がれば上がる程、その恐怖が強く成れば、トップに成ったら
一体どんなリーダーが生れるのでしょう。自分の考えや行いに否を唱える者は、有無をいわず抹殺するという
世界が恐れる独裁者が生れるのです。
この狂気を生むのは、決して蛮行を行う者の問題ではなく、その様なリーダーを生み出す社会にあるのです。
人の価値を軽んじ、経済生のみを自分の求める元とする社会体制が、いつの間にかに怪物を生んでいくのです。

人は人によって育てられます。しかし、その人を否定し、自分の欲望のままに生きれば、いずれ不幸が訪れます。
人が人に行う行為は、全てにおいて、相手の事を理解して尊重するものでなければなりません。
人が人の上に立つ事は、その人の下にいる多くの人を幸せにしてこそ成り立つ事で有り、我欲の為にその地位と
権力を利用している様では、誰からも信頼を得る事は出来ず、いずれ裸の大様と成って人々から見捨てられる
運命となるのです。

 

 



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