めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

子供達の未来を損なう大人たちの身勝手

2019-01-12 14:12:46 | 日本人

日本社会は、バブル崩壊の後の不況を経験しても
華やかさを失わず、東京オリンピックを前にして
都内は至る所で巨大なビルが天を突いています。
朝夕のラッシュアワーには、膨大なる数の人の波が
駅を中心に溢れています。

この光景は、戦後長きに渡って続いている光景ですが、
豊かな国の象徴のような日本社会を支えている国民は
幸せであるかと言えば、外見とは裏腹に、多くの人々は
年々心に余裕を失い、生きて行く事だけで精一杯の
未来に夢を持てない国民が増えているのです。

戦後半世紀以上たっているのに、いまだ日本人の多くが
経済的に豊かと成っても、一向に幸せを感じられないのが
日本人にとって不幸と言えます。
経済的に豊かになっても、心の中は一向に幸せと成らず
誰もが羨む地位や名誉を勝ち取ったとしても、思った程
満足感を得られない人がとても多いので

この原因は、人々の暮らしにあるのではなく心に有ります。
私たち日本人には、生まれた時から大人になるまで、
世界的に見ても優れた教育制度が有り、殆どの日本人が
沢山の知識を身に付ける事が出来ます。
しかしながら、問題は、子供たちを大人の都合で育てる
いわゆる、教育と言う名の洗脳の場所が学校なのです。

つまり、社会に適応する人間を育てる為の機関なのです。
幼稚園から大学まで、消費経済社会を維持するための
優秀な人材を育成する為にあるのです。
表向きは、子供たちを伸び伸びと育て、立派な社会人に
育てる為と言いますが、その内容は、子供たちに
常に競争を強いて、より成績の高い子供を優遇します。

しかし、この教育の方法は、人々の心の中に、常に
人の上に立つことを喜びとし、他人より勝る事が喜びであり
人の価値であるように教えられます。
その為には、他人の上に立てば、自分はより優れた存在と成り
自分より下の人を見下すことが出来るとしたのです。
この事は、人々の心に常に他人と競う気持ちを抱かせ、
他人に勝つ事しか喜びを感じられない心を作ってしまいます。

所が、人は常に人に勝つことは出来ません。誰もが自分には
及ばない出来ない事が有り、人々の心の中には欲求不満が
募ります。
どんなに経済的に豊かになっても、心が満たされない国民が
生まれるのです。
新たなる満足を求めて、消費経済社会を発展させていく
と言うのが、この社会で地位と名誉と財産を手に入れた
一部の富裕層であり、現実社会は、彼らを中心に回っている
と言っても良いのです。

次々の欲望を満たして行く事に喜びを感じる社会は、一見
幸せな社会と思いがちですが、自分の欲望のためには、
常に競いながら他人を蹴落としていく事で、当然の事の様に
人々は争い傷つけあうのです。
昨年からメディアがよく取り上げる様々なハラスメントは
日本社会が生み出した世の中の歪のようなもので、国民が
信頼関係の下で生活していない事実を示しています。

何でも受け入れてしまう子供たちの脳は、様々な知識だけでなく
豊かさの基準も簡単に受け入れてしまいます。
自分の我儘が許されると成れば、人の気持ちを考えることなく
社会的地位さえ得れば、学校で言えば成績さえよければ
自分の欲望が叶えられると思ってしまうのです。

しかしながら、誰もが自分の思い通りの勝利が得られれば
良いのですが、現実は、敗者と成る事が多いのです。
問題は、勝者に対する社会の賛辞は良いのですが、敗者は
差別ともいえる屈辱を味わう事と成るのです。
負ければ地位も名誉も与えられず、人々の見方も、極めて
差別的となる為、負ける事は心を傷つけられ不幸になると
多くの方は考えるのです。

その為、敗者となる可能性の方が多い日本社会にあって
社会的に幸せと感じる人は非常に少ないと言えるのです。
少しでも気を許すと、簡単に足をすくわれ奈落の底に
落とされかねない日本社会は、日本国民にとって、どんなに
経済的豊かな国と成っても、幸せな国とは言えないのです。

子供の頃から社会的価値を身に付ける事を幸せと教えられれば
他人の事を構っている場合ではなく、少しでも人の上に立ち
便利で豊かな物をより多く身に付ける事に専心するのです。
社会の発展のためには良いのかもしれませんが、国民の心は
外見とは裏腹に、荒み、心のよりどころを失って行くのです。

家族の間に置いても、友達同士でも、更には、社会人と成っても
人の気持ちが理解できない日本人が多くなっているのです。
常に本音を隠し、外見的に豊かで満たされた人間の様に振舞うも
実際の自分の心とのギャップに多くの日本人は苦しんでいるのです。

中でも、個人としての価値を認められず、社会的な価値として
評価される日常生活は、対人的に孤立感を強め、自分自身の価値を
認めさせようと、様々なハラスメントを引き起こす原因とも
成っているのです。
人が人を信じられない世界は、人が集団でい生きて行く事が出来ず
常に孤独と焦燥感に包まれて、生きて行く意味や価値を失うのです。

日本人が、どんなに経済的に豊かになろうとも、心から幸せと
感じる事が少なく、常に、人の物を欲しがり、自分の生活を否定し
社会的な満足度を増す事で幸せと考える、何時まで経っても
不安から逃れることが出来ない生活を強いられるのです。

経済社会は、あらゆる手段を使って、人々に消費生活を行うことを
幸せと説きます。
ネットの発達もあって、人々は情報のままに生活を行うことが
幸せに成ると信じ、より経済的豊かな生活と消費を行うことが
豊かな人生を送る事と思い込んでしまいます。

しかし、現実はどうでしょう。家の中を見渡せば、溢れるばかりの
消費物質に囲まれています。常に新しいものを手に入れた途端
それまでの物は、一瞬にしてその輝きを失い、廃棄物と成って
棄てられる運命にあります。

この事は、日本社会における個人の価値と何だ変わりません。
社会に認められ価値のあるものとされなければ、自分自身は
簡単に捨てられる恐怖が日本人の心にあるのです。
常に周囲の人達を気にして、社会の流れに同調して、
取り残されれない様にする事で必至なのが、現在の日本人です。

例え人も羨む生活をしていたとしても、社会的に見れば
その価値は、自分ではなく身に付けた経済的価値であり、
本当の自分の価値を認めてくれる人は、ほんのわずかなのです。
この事が解っている為、どんなに豊かな生活をしようとも
日本人は心から豊かにならず、外見をもって、自分は豊かで
幸せなのだと納得しなければならないのです。

日本人は、ほんの一部の人達を除いて、心から幸せを感じられない
砂上の楼閣の様な生活をしているのです。
その為、常に社会の動きに翻弄され、我儘な指導者達の言いなりに
ならざるを得ず、幾度も大戦に巻き込まれていくのです。
日本人の生き方は、日本社会を牛耳っている人達の思い通りに
決められて行くと言うのが実情であり、本当に、日本人一人一人が
心から幸せを噛みしめる事は出来ないのです。

 

 

 

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿