羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

見るということ

2005年09月23日 07時21分23秒 | Weblog
 かつて野口庭に、写真を撮りにいらした男性の弁。
「いや、参った。びっしり多様な植物が繁茂していて、カメラを向けたんだけど、どこからが違う植物なのか分からなくてね」
 
 初めて先生の庭を見たK氏は、どこをどのように写してよいのか、迷ってしまったと語ってくれました。
 東京では育てるのが難しいといわれている羊歯類・蘚苔類・高山植物が青々と茂り、地を這い、地植えされている「樹木や置かれている石にまで這い上がり、庭の土を覆い隠している様を目にしてあっけにとられるばかり。

 このことはK氏の目が節穴のではなく、人が物を見る限界を示していることでした。
 植物に限らず、野口体操の教室にはじめていらした方の目には、どの人も皆同じように映ってしまうようです。ベテランの人の動きと、初めて間もない人のギクシャクした動きの差が分からない。さらに野口体操が求めている動きの方向と似ていながら非なる動きの差にいたっては、まったくお手上げ状態です。
 30年前、私も同様でした。
 そして、「自分だけが、なんでこんなにからだが硬いのか」と思えてしかたがない。
 
 ところが教室にいて、何度も繰り返し見るうちに、違いが感じ取れるようになれます。辛抱しかない? いや、自分自身で動いてみて、それを繰り返して、次第に違いが見えてくるようになります。
 
 逆立ちの質の違いを見抜く目も、同じことです。
 みることって「見・診・観・瞰・覗・覩・看・視・監・瞟・覧・監・胥・瞥……」。
「目」と「見」の文字を、とりあえず呼び出してみると、これだけあります。
 
「見方もいろいろ・人もいろいろ」という言い方には、ちょっと手垢がついてしまいましたが。

 
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