羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

繰り言・・・荷風散人の目で東京を歩くと・・・

2018年11月09日 07時00分40秒 | Weblog

日和下駄をつっかけて、自由気ままに東京を歩く荷風散人の目を携えて、歩いていると『冷笑』の意味が何とはなしにわかるような気がしてくる。

1905(明治38)年に渡米し、一時、華盛頓・ワシントンDCにも滞在したが、紐育・ニューヨークを中心に1907(明治40)年まで暮らした荷風は、この年に仏蘭西に居を移し翌年の1908(明治41)年7月に帰朝した。

その後は作家として、「あめりか物語」「ふらんす物語」ほか海外体験を描き、じかに欧米を見たその目で東京の町を散策し、日本の近代化文化を冷ややかに眺めた作品を残している。

明治45年の期間では、明治政府は盤石とは言えない。

まして、大正期に入ってから、君主を支えることに頭を悩ませたはずである。

そのままでは国は危うい。

帰朝した明治末期から大正にかけて、荷風さんに見える東京の町は、何ともはや“ 張りぼて”に過ぎないと映っても不思議はない。

なぜに、政府は絵画館に展示するプロパガンダ絵画制作に、あれほどの情熱を傾けたのか、傾けざるを得なかったのか。

荷風さんは知っていた!

幼少の頃、アヘンでやられた上海を知っていただけに複雑な思いで、張りぼて近代文化を眺めていたに相違ない。

 

1909(明治42)年に、なぜゆえに、当時の日本近代建築の雄として東宮御所(現在の迎賓館)を完成させたのか、させなければならなかったのか。

荷風さんはわかっていた!

だから、“張りぼて文化”の東京を「冷笑」することで、作家として立って行くしかないと、覚悟を決めた。

いや、江戸期の文化がどれほど成熟し、どれほど内容の深いものであったのか、荷風さんは知っていたのだ。

私は、これまで見てきた東京の近代を思い出す。

昭和30年代始めの赤坂離宮は、全くもって荒れ放題であった。誰も気にも留めないし、目にとめない無残な状態だったことを思い出す。

止めていられなかった。復興に全精力を傾けていくしかない敗戦後であったから。

 

そして、今、2回目のオリンピック2020に向けて、急速に変化してゆく東京の街に埋れてしまいそうな近代の東京を見ていると、荷風さんの嘆息が聞こえてくる。

江戸が壊され、ピッカピカの近代が、それこそ突貫工事で造られていく。その姿に、懐かしさ以上の感慨を持って、江戸回帰したくなる心情もわからなくもない。

『断腸亭日乗』を綴り、それを後世に残したことが、荷風さんのいちばんの仕事だったのかも知れず。

 

昨日、赤坂見附から三宅坂方面を見上げて、思った。

「外からは攻めにくよなー」

この勾配では馬は登れない。歩兵は石を投げられるだけで弁慶濠に墜落してしまう。

 

昨日、喰違見附を歩いて通って、思った。

「外からは攻めにくよなー」

入り組んで狭いところを馬はもちろん、歩兵ですら武器を持ったら二列にも並べない。

 

昨日、歩き始めに三宅坂から桜田門方面をまず、拝ませてもらって、思った。

制度疲労を起こし、汚職がはびこったとしても、江戸の人々にとっては、まさか徳川の千代田の城が落ちるとは信じられなかったに違いない。

黒船の恐怖だけで、幕府が崩壊するとは、江戸の人々にとっては、信じがたいことだったに違いない。

人智を超えた、なにがしかの力が働いに違いない、と・・・

 

おっと、繰り言はこのくらいにして、本日の仕事にかかりましょう。

でも、もうしばらく荷風さんに寄り添ってもらって、変貌を遂げる東京の街を歩いてみたい、と密かに思っている・・・ 

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