先日の下見の際に手に入れた「東叡山 山内図」は、現在の寛永寺の所領と明治期に国に没収された地域を色分けしている。
冊子の中には、戊辰戦争のうち上野戦争の絵が掲載されていた。
寛永寺に陣取った彰義隊を殲滅すべく、新政府群(薩摩・長州軍)は上野の山に攻め入った
その時の様子を描いた有名な絵には、黒門がしっかり描かれている。
下谷広小路から、東叡山に侵入するためには、この門を通ることになる。
寛永寺の門前町としてにぎわったこのあたりの町は、この黒い門にちなんで黒門町と呼ばれた。
現在は、台東区上野1丁目ー3丁目(一部)にあたる。
今度、食事をするところが、かつての黒門町であることは、前のブログで書いた。
もう一つ、落語家の八代目桂文楽の別名「黒門町」も思い出さなければいけない。
西黒門に住まっていたことに因んでいたからだと言われているが、「黒門の師匠」はステキな響きである。
「◯◯のお姉さん」とか「◯◯のおじさん」とかいうように、住まっている地名を冠して呼ぶことは、今でも行われている。
その意味からも、旧地名を便利さと合理性だけで変更してしまうのは、もったいないを超えている。
歴史は地名の中に、すっぽりと残されているのだから。
特に東京では簡便さゆえの地名改変がいたるところで見られる。
しかたがない、と言ってしまえばそれまで……。
今回は、徳川の東叡山・寛永寺の視点から、時間をかけて上野のお山を歩いたことで、江戸期から明治への激変(革命)をはからずも思い起こすという体験をさせてもらった。
東京の町は、江戸の町づくりの上に、成り立っているのであることを、他の地図と照らし合わせて教えられた。
野口先生も長年勤めた芸大がそこにあった、墓所が高崎に向いている、という理由だけで寛永寺に入りたかったわけではない。
上野という場が、江戸と明治の二重の深い意味を持つ所であったことに惹かれていたに違いない。
それはそのまま、群馬の養蚕農家という前近代の風習が残っている出自から、東京という新しい価値の場に身をおいて、「野口体操」という独自の体操を生み出す、その根底の二重性に気づかれていたからに違いない、と勝手に思っている。
近・現代の価値観だけでは理解しずらい野口体操。
その身体観・自然観は、単純に割り切れない歴史の場と時を内包している。
そのことに気づかされた4月1日の下見は、野口体操への見方を変える端緒になってくれたのかもしれない。
『遡ることは朔ることである』
なぜ、今回に限って、墓参りを皆さんとしたかったのか。
無意識の欲求と選択の謎が、自分のなかで解明にむけて溶け出してくれたような気がしている。
そして予想外に多くの方々が、参加を希望してくださった、その意味にも通じているような気がしている。
あぁ〜、そうか〜。
思わず膝を打つのではなく、頬ヅエをついてパソコンのキーボードの向こうに、これからみえるであろう近未来の風景をを何となく見つめている私です。
冊子の中には、戊辰戦争のうち上野戦争の絵が掲載されていた。
寛永寺に陣取った彰義隊を殲滅すべく、新政府群(薩摩・長州軍)は上野の山に攻め入った
その時の様子を描いた有名な絵には、黒門がしっかり描かれている。
下谷広小路から、東叡山に侵入するためには、この門を通ることになる。
寛永寺の門前町としてにぎわったこのあたりの町は、この黒い門にちなんで黒門町と呼ばれた。
現在は、台東区上野1丁目ー3丁目(一部)にあたる。
今度、食事をするところが、かつての黒門町であることは、前のブログで書いた。
もう一つ、落語家の八代目桂文楽の別名「黒門町」も思い出さなければいけない。
西黒門に住まっていたことに因んでいたからだと言われているが、「黒門の師匠」はステキな響きである。
「◯◯のお姉さん」とか「◯◯のおじさん」とかいうように、住まっている地名を冠して呼ぶことは、今でも行われている。
その意味からも、旧地名を便利さと合理性だけで変更してしまうのは、もったいないを超えている。
歴史は地名の中に、すっぽりと残されているのだから。
特に東京では簡便さゆえの地名改変がいたるところで見られる。
しかたがない、と言ってしまえばそれまで……。
今回は、徳川の東叡山・寛永寺の視点から、時間をかけて上野のお山を歩いたことで、江戸期から明治への激変(革命)をはからずも思い起こすという体験をさせてもらった。
東京の町は、江戸の町づくりの上に、成り立っているのであることを、他の地図と照らし合わせて教えられた。
野口先生も長年勤めた芸大がそこにあった、墓所が高崎に向いている、という理由だけで寛永寺に入りたかったわけではない。
上野という場が、江戸と明治の二重の深い意味を持つ所であったことに惹かれていたに違いない。
それはそのまま、群馬の養蚕農家という前近代の風習が残っている出自から、東京という新しい価値の場に身をおいて、「野口体操」という独自の体操を生み出す、その根底の二重性に気づかれていたからに違いない、と勝手に思っている。
近・現代の価値観だけでは理解しずらい野口体操。
その身体観・自然観は、単純に割り切れない歴史の場と時を内包している。
そのことに気づかされた4月1日の下見は、野口体操への見方を変える端緒になってくれたのかもしれない。
『遡ることは朔ることである』
なぜ、今回に限って、墓参りを皆さんとしたかったのか。
無意識の欲求と選択の謎が、自分のなかで解明にむけて溶け出してくれたような気がしている。
そして予想外に多くの方々が、参加を希望してくださった、その意味にも通じているような気がしている。
あぁ〜、そうか〜。
思わず膝を打つのではなく、頬ヅエをついてパソコンのキーボードの向こうに、これからみえるであろう近未来の風景をを何となく見つめている私です。
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