羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

逆・境からの眺め

2017年03月03日 08時47分30秒 | Weblog
 4月1日のお集りは、若い方は20代後半、ご年配の方は90代の方まで、男女ほぼ半数の割合という構成になった。
 そこで、事前観察、というか事前下見で、とりわけ坂道の傾斜具合もチェックした。
 そんなつもりで、上野のお山を歩いてみてわかったことがある。
 
 野口三千三先生が藝大に通うとき、上野からではなく鴬谷駅南口から、寛永寺の墓所と東京国立博物館裏手にある道を通っていらした。この道は人通りが少なく「おっかさん、ランニング」も出来たそうだ。
 寛永寺に墓所を求めたのも、通い慣れた道の傍に眠りたい、という強い希望からだった。
 墓所は今ではスカイツリーを背にして群馬県高崎を向いている。高崎は先生が最初に赴任した小学校がある。
 ということでこの墓所は先生にとっては絶好の位置にある。
 
 さて、今回もこの野口三千三ルートで、食事処まで花見をしながら歩くことになっている。
 そこで問題になったのは、標高差であった。
 たとえば、上野公園内にある動物園あたりから不忍池へ抜けようとすると、かなり傾斜の強い階段を降りることになる。
いたって足下は悪い。
 公園は武蔵野台地のうちの本郷台地の東辺にあって、不忍池はかつて東京湾(江戸湾)の入り江が取り残されてできた。ここは谷になっている標高ゼロメートルの地。当然、おりていく階段は急斜面なのである。
 公園中央部の標高は、海抜20メートル。
 そこへと登っていく出入り口がある上野広小路がつまり下谷広小路は微高地で、だいたい2メートル未満であろう。
 ざっと計算しなくてもわかることだが、下谷広小路からはほぼ18メートル以上の山を登ることになる。
 しかし、この道は歩きやすく傾斜が整えられている。

 今ではJR上野駅公園口から下車すると、ほとんど平らな道を通って公園に出られるが、本来は下谷広小路から坂道を登ることで東叡山のありがたみが実感できると言うわけだ。
 江戸城から見て陰陽道の上、鬼門に位置し、江戸を護る寺院群なのである。 
 さらに京都の延暦寺からみて北東に位置する、という所に深い意味がある。

 近隣には隅田川、日光街道、奥州街道があり、寛永寺から浅草寺へと真っ直ぐ繋がる道も作った。
 現在の公園内・中央噴水があるところに、かつての根本中堂があった。
 その風景を目の奥に描いてみると、私たちの文化のルーツを遡ることになる。
 間口45・5メートル、奥行42・2メートル、高さ32メートルの大伽藍を脳の中に構築してみる。
 もし、ここに消失しない建物が残っていたら、寛永寺と浅草寺という対の寺が揃って、はじめて江戸東京の本来の名所になる。
 そしてその奥に墓所が位置するわけだから、正面からみたお山全体が、一つの意味のある空間であることが腑に落ちてくれる。

 茫漠としてひろがる関東平野の標高差を、実感できる貴重な山登りなのである。
 西は立川あたりから始まる武蔵野台地、その東の絶壁である東叡山を味わうのも一興である。
 地形を身を持って体験するということの意味は、自分の生きる空間を歴史的にも知ることになる。

 実は、私たちが巡る道筋は、江戸期の東叡山・寛永寺に参る行き方としては、真逆の道順となる。
 さらに、今回の食事処は、江戸期から門前町として料理屋等々が連立したまさにその地に位置している。

 歴史の層を一皮むいて、江戸期の風景を思い浮かべながらのお花見もステキかもしれない、と今からワクワクしている私なのだ。
 今回のお食事処は、台東区上野2丁目である。かつての町名は黒門町である。ここは寛永寺総門、通称「黒門」からきている場所だ。

『遡ることは朔まること』野口先生の名言を体験できるよき機会となってくれるだろう。
 現代を形づくっている江戸東京の始まり、幕末の上野戦争の前に遡る想像力を持ってのぞみたい。
 武蔵野台地の山裏道から、下谷広小路の参道へと、“逆・境”からの眺めも“乙”なことですわね。
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