羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

ドキュメンタリー映画の逸品

2018年09月01日 04時10分59秒 | Weblog
 本日の内容は、最近、頓に群馬県(前橋や高崎)が第二の故郷になりつつある私の感想です。

 日比谷公園内にある日比谷図書文化館「コンベンションホール」で上映された、ドキュメンタリー映画『前橋飛行場〜私たちの村も戦場だった』を観た。
 開場20分前に入ってもらった整理券は103番だった。とにかく満席状態だった。
 観客は、高齢者が多かったが、若い学生、霞が関にお勤めの方々らしき人も見受けられた。
 後からわかったことだが、平成21年に施行された「公文書管理法」に関係する、あるいは関心を持つ方などがいらしたらしい。 

 さて、パンフレットを写すことで映画の意図をお伝えしたい。
『太平洋戦争末期に群馬県中央部にある(旧群馬町)に
 急造された陸軍 前橋飛行場
 田畑は強制買収され 
 特攻訓練された若者たちは沖縄へ向かった
 当時を知る人々の証言から
 浮かび上がることは・・・・』

 証言をされた方々は、70代後半、80代、90代で、終戦末期には5歳から20歳だった。
 みなさん、非常にお元気で、しっかりとした話ぶりであった。
「記憶を記録に〜平和への願いを込めて」という副題とおり、生々しく語られる言葉によって、当時の様子が鮮明に伝わってくる。

 そもそも日本軍は、終戦と同時に読まれてまずい文書を、一斉に焼却処分した。
 そのことによって、当時のことは調べようもない中、戦時中に「村日記」として書き残された鈴木越夫著『陸軍前橋飛行場と戦時下に生きた青少年の体験記』が軸となっている。
 この日記が存在しなければ、歴史は無いものとなってしまっていた。

 記録を残すこと(公文書管理)の意味が、この映画に込められていることも舞台トークではっきりと語られた。
 出演されたのは、福田康夫元総理と東京大学大学院教授加藤陽子さん。
 このドキュメンタリー映画は、アメリカ公文書館に残されている前橋を写した一枚写真が重要な鍵となっているからだ。
  
 戦後70年以上が過ぎた今だから知りうる太平洋戦争の現実・事実がある。
 戦後70年以上が過ぎた今だから、記憶を記録として残していかなければならない、という強い意志がひしひしと伝わってくる。

 そこで飯塚俊男監督の一つの言葉は重く、こうした姿勢があることによって映画のリアリティーが担保されていることがわかった。
 ・・・話を聞けば聞くほど21世紀の自分たちが地続きで生きていて・・・当時の人々の隣にいるような錯覚にとらわれるとし、
『もし、あの時代に生きていたら自分も特攻に志願していたかもしれない』
 
 こうした姿勢で作られた映画だから、戦争というものの恐ろしさを克明に事実として浮か上がらせることができたのだと思う。

 例えば、アメリカ軍の飛行機を見上げた小学生が、その角度を読むことで爆撃機ではなく偵察機であると判断できた。
 また、アメリカ軍によってまかれたビラを読んで、正確に戦況を判断できたりしていたこと。

 終戦になってもまだこれからが戦いの本番であると息巻いて、小学生が拾ったビラを取り上げてしまう等々、軍人や上層部の大人の方が判断を誤る愚かしさに対して小学生の利発さが浮き彫りになる。
 そう語った加藤陽子さんは、当時の小学生がしっかり文書を理解し、科学的に航空機の飛行航路を読み取る力を持っていたのは、基礎教育のおかげであろう、と話をまとめられた。
 とにかく戦時中、範師学校出身の教師の中にもそうした子供を教育できた人がいたということ。
 願わくば、野口三千三もその一人であって欲しい、と密かに思う私だった。
 本当のところ、野口体操も個々人の記憶を記録に残していきたい、と思ったりもして。
 それもあってかなり真剣に見て、舞台トークも記録したのかもしれない。

 とりとめなく、まとまりなく書いてしましました。
 備忘録のつもりです。

 追加上映

 日時:9月17日(月・祝日)10時〜 10月3日(水)10時〜

 場所:新宿K’s cinema 新宿駅東南口階段下ル 甲州街道沿ドコモショップ左入ル

 電話:03(3352)2471

 
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