羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

引退

2007年02月26日 19時31分12秒 | Weblog
 円楽師匠引退の第一報は、昨日インターネットで読んだ。
 今日は、テレビ各局で「芝浜」の最後を流していた。その後、ご本人が自ら決断した引退会見を見せてくれる。
 日テレは「笑点」の局だからだろうか、昨年から独占取材をしたドキュメントを流した。そして「芝浜」を語り終えて、高座の座布団の上で崩れ落ち、立ち上がれなくなった師匠を映し出した。映像は残酷だ。嘘ではない。夢でもない。現実に起こったことだった。
 
 夕方、テレ朝のニュースでは、「芝浜」最後の落ちの部分を、18年前の録画と、昨日の録画を比較して見せた。
 お酒の入った茶碗を口元まで運んで、茶碗の縁に唇をつけるかつけないかの状態で最初の間をとり、目をぱっと開く。そして二度目の間をわずかにとって、茶碗を下ろす。
 18年前だっていいけれど、昨日の間もいい。

 落語の人情話というのは、年を経ることで味わいが深まる。
 ずっと昔、よく落語を聴くことがあった。
 もう今は亡き名人たちばかりだ。その名人は、一体どのような幕切れを見せたのだろうか。まったく記憶は欠落している。

 「引き際の美学」と言う言葉があるが、円楽師匠も決断は高座に上がったときには、すでに九分九厘されておられたのではないかと思うくらいに、見事な会見だった。
 記者の質問に、一言・一言、言葉を選びながら、間をとりながら、答えておられた表情には、ある諦念の色がはっきりと見受けられた。
 落語家人生が走馬灯のように脳裏に浮かんでいたのだろうか。いや、そうではなくその場で見事な「人情話」をつくりながら、「これが最後」としっかり見据えて語られたのだろうか。
 名人、自らが幕を引く。その姿に目頭が熱くなった。万感迫るものがあった。

 そして、私には、思い出すシーンがある。
 野口三千三先生にとって最後の年末、1997年12月のレッスンの日のことだった。いつものように新宿で待ち合わせをして、地下鉄・新宿御苑前で下車した。階段を昇りきって道路に出る。少し歩いたところで、ビルの方によってうずくまってしまわれた。実はそれ以前から、階段を上がるとめまいがよく起こっていた。
 ところがその日のめまいは、かなりひどいもので、うずくまったまま立ち上がることができなかった。しばらくして落着かれたのか、しゃがみこんだまま顔をあげられた。すると先生よりもお年を召した方が、ステッキをつきながらもしっかりした足取りで教室に向かわれる姿を、偶然にも目にされた。その方は、野口体操教室に20年は通っておられた元国文学の教授だった。80歳はとっくに超えられていた。

 野口先生の顔から、みるみる血の気が失せていった。
 その日は、12月最後のレッスン日。
 年末最後のレッスンでは、必ずやることになっている「ジングルベル」のフォークダンスを、先生は椅子に腰掛けてご覧になるだけだった。顔はにこやかに笑っておられた。しかし、あれほど寂しそうな笑いをみたことはない。
 その日を境に、野口先生の中では、何かが崩れていくのを、私は感じていた。
 
 今日、円楽師匠の記者会見をテレビで見ながら、引退は惜しまれるけれどあの高座に上がることはさぞや命を振り絞り、覚悟のことだったのだろうと、こみ上げるものがあったのだ。 
 次第に最期の野口先生と重なってしまったのだ。
 病は人を弱気にする。それが自然だ。受け入れるしかない。辛くても、辛くても……。

 でも、もっと辛いのは、老いだ。
 老いは、哀しい。
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