羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

はじめにロゴスありき

2007年02月25日 20時11分57秒 | Weblog
 連日、佐藤優著作を読み続けている。
 『獄中記』は、もう少しで読了する。
 どれほどの理解を自分がしているのかはいえないとしても、久しぶりに読書の醍醐味を味わっている。

「はじめにロゴスありき」
 その言葉が、私の中でよみがえった。
「はじめにロゴスありき」
 この姿勢は、白川静文字学の姿勢でもある。

 さて、佐藤優著作、日本語でこのような文章表現が可能だということを、実証してくれた。凄いと思う。
 日本語はけっしてあいまいな言語ではない。書けないこと、書いてはいけないことを行間に滲み出しながらも、明瞭な言語表現を、日本語で出来る人が現代に現れたのだ。いくつもの外国語を学ぶ中で、言語力を磨いていることが明確に伝わってくる。
 
 昨年『日米開戦の真実』を読んだきり、他の本を手に取ろうとはしなかった。
 今頃になって『国家の罠』を読み『獄中記』を読んでいる。
 さらにアマゾンで取り寄せた本が、机の上に積みあがっている。
「もっと早く読めばよかった」
 しかし、間に合ったという実感がある。

 付箋は『獄中記』の方が多い。とりわけ重かったのは、第五章「神と人間をめぐる思索」だった。

 八月二十二日(金)付け、外務省後輩へのメッセージは、圧巻である。
 日本人がキリスト教の理解という次元から遠く離れているとすれば、そこを明快に言語化しているからだ。
「初めがあって終わりがある」直線的な時間認識と、仏教的な「輪廻」の時間認識の違いが浮き彫りにされる。そして「メシア」という存在の捉え方の違いが、キリスト教徒とユダヤ教徒とでは、どの点で異なっているのかが明快に述べられている。
 その上でカトリックとプロテスタント微妙な関係まで、ごく短い文章のなかで語る力量はたいしたものだ。
 この「神と人をめぐる思索」が、今後、どのような形で著作として展開されるのかを、追っていきたいと思っている。

 かつて永井荷風は、「キリスト教はわからない」として江戸文化に回帰してしまった。その荷風の弟は、皮肉なことに牧師になった。
 かつてパリで客死したエトランジェ・森有正は、もっと陰鬱な苦渋に満ちた文章を残した。森が演奏するパイプオルガンは、魂の救済のみをひたすら祈る響きに満ちていた。

 ところが「佐藤優」は、かつての日本人とは違う。現代日本だからこそこの才能は押しつぶされずにすんだ。彼の著作を、リスクを追ってまで出版しようとする人々がいた。ベストセラーになるということは、日本の良識がまだ欠落していないことの証明ではないだろうか。
 確かに賛否両論ある中で本が読まれ続けている。
 しかし、現代の日本は、まだまだ捨てたものではない。
 瀕死の際にある本の文化にとって、この本は「メシア」となった。
 
 なにより『獄中記』、第五章で語られる近・現代史観は、単なる歴史観ではなく、歴史を根底でつくりだしていく宗教・哲学への造詣の深さと、そのなかで深められていく思索と、信仰の内面を実体感している著者だからこそ書ける「圧巻」だ。
 ぜひ『国家の罠』を読んで、不謹慎な言い方だが面白いと思われた方は『獄中記』を読まれることをおすすめしたい。

「はじめにロゴスありき」なのである。
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