「瞑想」という言葉を AI ではなく あえて Wiki に引く
「・・・・心を静めて無心になること、何も考えずにリラックスすること、心を静めて神に祈ったり、何かに集中すること、目を閉じて静かに思いをめぐらすことなどとされている・・・・」とある。
想う。
野口体操のヨガの逆立ちは、頭の中心・一点に重さを流し込み、余分な力はいらない、と教わってきた。
私の「野口流ヨガ逆立ち」は、そのイメージに加えて、背中側がほぐれていて「バランス感覚+全身の張力」で立つことができた時がいちばん気持ちいい。
そこで、この時の身体感覚を、もう一つの瞑想として数えたい。
うぅっ!
もう一つということは、二つ目があるの!
そうなんです。
スタニスラフスキーによる「音の瞑想」つまり「聴覚の瞑想」。
静かに座して、聞こえてくる音に集中する。
音の質、音と音の距離感、さらには音から紡ぐ物語(羽鳥)さえありうる。
心を鎮めて、音にひたる。
それがありならこれもありか?
昨日の朝カル日曜クラスで
「音の瞑想」の後に、小さな板チョコレートの味を、じっくりたっぷり時間をかけて味わってもらった。
断食を終えて最初に食するものは、驚くほどの時間をかけ、丁寧にそのものの味を味わいつくす。それに近い行為。
これは「舌の瞑想」「味覚の瞑想」と拡大解釈。
そうなるとまだまだありますぞ。
「触覚の瞑想と視覚の瞑想」
二人で組んで「上体のぶら下げ対話」と行うというもの。
最初は視覚を生かして相手に触れる。
続いて目を閉じて、視覚を捨てて、触れる手を目に代えて対話する。
そのうちに全身感覚が触れる手に集まってくる。
相手の動きを鋭敏に感じ取ろうとする意識が働く。
消すことで、見えてくる世界(動き)がある。
すると見ようとする意識までも消える。
「香りの瞑想」「嗅覚の瞑想」
これは、先週末に書いた。
お蔵スタジオの水拭き掃除のあと、わずかに差し込む淡い光の中で線香の香りに身をひたし、味わった「香りの瞑想」の時。
たちのぼる煙に、複雑な香りをききわける行為の話をした。
その体験の後の爽快さは、こんがらがった「脳の掃除」になった話をした。
いつか皆さんにも体験してもらおう。
こうした瞑想体験をしてもらった昨日。
残されたレッスンの時間はわずかとなったが、一人ひとりが、これまでにない味わいに身を委ねて、野口体操つまり自分の身体に起こる感覚を大切にしながら動いてくれた。
不思議な爽やかな解放感・ゆったりとした交流感のなかで、ゆっくりな動きはもとより鋭い動きまでも、(そう見えたのは、わたしの独りよがりかもしれないが)、自然と緊張が解けてくれたように見受けられた。
これを瞑想というのは、いかにも邪道であろうか。
一歩間違うと危ない危ない。
最初に『スタニスラフスキーとヨーガ』の本の内容と野口三千三の演劇界との関わりを話の中で、なぜ「瞑想」を取り上げるかを語った上での展開であった。