羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

「生卵との対話」

2015年06月17日 11時35分27秒 | Weblog
 1981年1月30日「朝日新聞」朝刊「天声人語」より
《 生卵を立てることができますか、と若い友人のA君にいわれた。残念ながら立てたことがないというと、A君は翌日、買ったばかりの卵を五つ六つ持ってきて、論説委員室の机に立ててみせてくれた。いとおしむようにていねいに扱うと、それにこたえて生卵はすっくと立つ。 》
「卵は立つ」話は、こうした文章からはじまる。

 実は、1981年当時「天声人語」を担当しておられた辰濃和男氏とひょんなことから、お目にかかる機会を得た。それはこの記事を書かれてから10年以上過ぎたころだったのではないか、と曖昧ながら記憶している。
 偶然は重なる。
 ここにかかれているA君から、野口三千三没後に私は「AERA」に掲載された記事の取材を受けている。

 それはさておき、「天声人語」の話に戻そう。
 辰濃氏は、電話取材で野口とことばを交わしている。
「どのようにして卵が立つことに気づいたのですか」
「中谷宇吉郎氏の随筆です。あれに教えられました」。
『立春の卵』と題する随筆では、卵は立春に限らず「卵の形は立つような形をしている」。「立つべくして立つ」その理由を明快に説明している。
 辰濃氏の野口の紹介は、《 立つべくして立つ卵に学び、人間が正しく立つことや、力をいれずに逆立ちすることがどんなに大切なことか、を深く探求している人だ 。》と書かれている。
 
 1972年に三笠書房から初版が出た野口の著書『原初生命体としての人間』(現・岩波現代文庫版)では14頁から6頁にわたって「生卵との対話」が描き出されている。
 立つことが当たり前の生卵だが、立った姿は芍薬? いやいや《 宇宙の原理にとっぷりつかってそれを信じきっている。 》(『原初生命体としての人間』)
 つまり信ずるものは美しいのである。

 遡って野口がはじめて人様の前で生卵を立ててみせたのは、1960年ごろに催された演劇関係の講習会だった、と聞いた。
 泊まり込みで開催された講習会は長野県であったらしい。
 朝食に出された生卵を、野口はなにげなく立ててみせた。すると隣にいた人が驚いたのをキッカケに、大騒ぎになって、ついで全員が生卵立てに夢中になった。
 コロンブスの卵は生卵ではなく、ゆで卵の底をつぶして立ててみせた。そのことは殆どの人が知っている。が、生卵は立つはずがない、と思いこんでいる人の方が多かったから、その驚きとは新鮮そのものだった。
 
 如何に人は先入観に毒されているか!
「天声人語」で辰濃氏も書いている。
《 「立つはずはない」と思いこみ、誤解に安住していたのだ。そういう誤解が周辺にまだまだあるのではないかとふと思う。 》

 辰濃氏の感想は、殆どの人の感想といってもいい。
 そのことを逆手に取った野口は、すでに1960年代の東京芸大の授業で、一つの試みをしている。
 一クラスの学生を半分に分けて、片方の学生には生卵を立てて見せてから練習をさせる。
 もう片方の学生たちには、生卵が立つ姿を見せずに練習をさせる。
 結果は、ご想像の通り。
 立たせて見た方の学生たちの多くが、難なく生卵を立てることができた。
 もう一方は、なかなか立てることができなかった、という。
 先入観を持たせる、その意味がここでも見事に結果を分けたことになる。
 その情景を目にして、にんまりした野口の顔が、想像できませんか?

 かくして『原初生命体としての人間』の「生卵との対話」は、素敵なことばで結ばれている。
 立っている生卵はちょとした揺れでも倒れてしまう。
 野口はそのことに対して、はじめのうちは不安と脆弱さを感じさせられた、という。しばらくして見方を変えると、倒れる生卵に新しい動きの価値を見いだすことができた。
《 「 不安定を創りだす(バランスを崩す)能力は動きのエネルギーを創り出す能力である」と積極的にとらえなければならない。 》(『原初生命体としての人間』)
 
 このことは晩年になって「崩れこそ動きの原点である」という野口のことばにまとめられていった。
コメント
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