羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

野口体操をあらためる生誕百年記念

2014年09月07日 07時27分02秒 | Weblog
 野口三千三生誕百年を記念して、昨年からゲストをお呼びして講座を開いていることは、すでにご案内の通りだ。
 2013年8月には、演出家の鴻上尚史氏。(朝日カルチャー)
      9月には、映画「地球交響曲」監督の龍村仁氏(同)
 2014年3月には、俳優・舞踏家・大駱駝艦の麿赤兒氏(同)
      5月には、化石・鉱物鑑定家の神保寛司氏(高円寺・「石を愛でる会」)

 こうした対話を通して、野口体操の“これまで”と“これから”が見えてきたことは、どれもが貴重な企画だった。すべてに参加してくださった方には、近いうちに感謝・交換会を開きたいと思っている。
 また、毎回、朝日カルチャー「野口体操講座」を受講している方々に、スタッフとしてお力添えをいただいて、充実した講座や催しに導いていただいた、と感謝している。

 直近では、明治大学和泉体育館で行われた研修会では、非常に有意義なテーマをいただいた。
 2014年8月19日、全国大学体育連合主催・文部科学省後援「大学体育指導者全国研修会」である。
 
 2013年からはじめたこれらすべてのお題は「からだとの対話ー野口体操を再考する」で通してみた。

 その間、朝日カルチャーセンターの土曜日.日曜日の通常レッスンは、新しいテーマもふくめて、活発な発言を得ながら深め、新しい実技方法なども開発してきた。
 こうしたメモリアルイヤーの活動は、全体を通して収穫が大きかったが、いちばんの収穫は深刻にならず、楽しんで継続することができた、と感じている。その都度、反省することも多々あったけれど、全体の流れとしてみるとまずまずよろしい!方向を歩くことができた、と思っている。
 
 そこで、この場を借りていくつか書き残しておきたいことがある。
 一つ目は、野口体操の特殊性である。その特殊性がどこから生まれたのか。
 野口が生きた戦前・戦中・戦後~1970年代を俯瞰してみると、その歴史が野口にとって無縁ではなかった。むしろその時代、その時代に、体育教師・体操指導者として真摯に真っ正面から生きた姿が浮かび上がった。
 とりわけ戦時中から戦争末期、そして終戦直後からはじまったGHQ(CIE=民間情報教育局)指導のもとに行われた教育改革に体育が求められた問題等々が、より明確なこととして知り得たこと。
 その方向が、戦後69年を迎えた現在まで大きな影響を与え続けている現状も明確になってきた。
 そうした中での野口三千三の歩みが、いかに独創的で唯一(ユニーク)であったかも、よりはっきりと判った。
 つまり、野口体操が歴史の中で培ってきたことの大切な問題は、そのまま日本人の身体観を語ることになりそうだし、少子高齢化の時代にひとつの提案をし得る体操である、と確信を持つことができた。

 二つ目は、体操の実技に新しくはじめた動きがある。始まりは数年前からだったと記憶しているが、グッと進化したのはこの春以降かもしれない。どういう動きか、というと「背中合わせで腰をかけ、二人でからだをほぐしていく」ものだ、とだけ書いておきたい。近いうちに発表することができると思う。
 
 三つ目は、これから丁寧に確かめたいことだが、「腕立てバウンド」の基本とバリエーションの動きで起こっていること。このことも漠然とした言い方で、お読みなっている方にはまったく判らないことかもしれないが、とりわけ昨日のレッスンで、明らかになりつつある“「緊張」と「弛緩」”“「張り」と「緩み」”“男女の差”の問題、だ。

 四つ目は、生まれ持ったからだの質は、いかんともしがたい問題を内包していて、それを欠点とするのか、長所として活かすのか、さじ加減一つであること。長所は欠点だし、欠点は長所にもなりうる、という発想をしながら野口三千三は体操を見ていた、と確信を得ることができた。
 言ってみれば、野口体操を指導する難しさがここにある。

 今のところ、中途半端な途中経過報告になったが、没後満17年の2015年3月までには、まだ半年以上の時間がある。そのころまでには、まとまった形でリポートをまとめたいと心づもりしている。
 いずれにしても昨年から一年以上を通して、殆ど休まず、根気よく、おつきあいをしてくださった方には、本当にありがたい、と感謝しています。
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