養老孟司先生じゃないけれど、血圧が上がりっ放しで、劇場のシートに座って見続けた。
昨日、朝一で「ノア 約束の舟」、映画を観ていたときのことだ。
つまり、最後に選択される「慈悲と愛」のために、次から次へと重ねられる緊迫感に身じろぎすら出来なかった。
神から選ばれし者として、使命を忠実に果たすためのに、容赦なく残酷な行為にも一心不乱に突き進むノアの物語である。
「過酷な自然の中から生まれた宗教が伝える伝説の物語に、圧倒されるばかりだ」と。
日本人の感性ではついていけないほど、善と悪が峻別される。
そして家族との葛藤の中で、神の使命を全うしようとする人間の苦悩が、残酷なまでに冷徹に描かれる映画をはじめて観た、と思えた。
決して気持ちのいい映画ではない。ユーモアもなければ、喜びも哀しみもない。
「人間って、こんな存在なのだろうか。これが原罪を背負って生きるということか。これがひとつの原点なのだろうか」
日本人として、自分には、なかなかに厳しい。
しかし、人間の本性に悪が存在し、他者や、他の生ものの多くを踏みつけにしても生きたい欲望がないとは言えないことを容赦なく描き出す。
スクリーンから目が離せない体の内側では、血圧が上がる一方だ。
なのに映画の途中で席を立つ行動をとる気持ちは、微塵も起こらなかった。
そもそもこの映画をなんとしても早く見に行きたい思いに駆られたのは、読んでいる本の内容を確かめたかったことが理由のひとつだった。
半分を少し超えた本『宗教改革の物語』佐藤優著 角川書店 16世紀の宗教改革に先立って、改革の先鞭をつけたチェコの宗教者フスからはじまる物語。神学論争は単なる形而上のことではない。選ばれし者として重荷を負い、主体性を持って邁進する。その行為の先に火刑という人間が下す裁きが待ち受けているフスもまたもうひとりのノアなのかもしれない。
宗教改革が近代という時代を拓き、民族、国家といった概念を形ずくっていく過程が物語られているらしい(まだ最後まで到達していないので、“らしい”です)
もう一冊は『資本主義の終戦と歴史の危機』水野和夫著 集英社新書 である。こちらは一気に読み進めることができる。見事な文明論、宗教論、文化論である。この本については書きたいことがたくさんあるが、一つだけ、殊に映画に誘われたところだけ触れておきたい。
ページ160、美術史家ジョン・エルストナーとケント大学教授ロジャー・カーディナルは『蒐集』のなかで《「ノアの箱舟のノアがコレクターの第一号」とも言っていますから、キリスト教誕生以来、キリスト教は霊魂を、資本主義以前の帝国システムにおいては、軍事力を通じて領土、すなわち農産物を、そして資本主義は市場を通じて物質的なもの、最終的には利潤を「蒐集」するのです。ノアから歴史が始まったキリスト教社会にとって、資本主義は必然的にたどり着く先だったわけです。資本主義とは人類史上「蒐集」にもっとも適したシステムだったからこそ、中世半ばになってローマ教会は「利子」や「知識の解放」など、本来禁じていたことを認めるようになったのです。》
エコノミストが描く宗教と経済の物語が投げかける意味は大きいと思いつつ、たまたま同時期に公開になった映画を見に行くことにした、というわけ。
さて、「使命を引き受けることとは、責任の所在を明確にすることとは、キリスト教が描く正義とは、主体的に生きる人間とは……、何か」。
この映画には、すべてが描かれている。
重すぎるし難しかった。
とはいえ今の日本に置き換えてみると、「原発事故」の後の問題。「集団的自衛権」の問題、「TPP交渉」の問題、「世界のエネルギー」問題、等々について、日本が西欧的な価値観とどのように対峙していくのかを考えるとき、二冊の本と映画「NOAH(原題)」は、はずせないと感じている。
さておき、水曜日の映画館の客は、女性が9割だった。もちろん私の隣には、友達と連れ立った若い女性が座っていた。彼女達も身じろぎ一つせずにスクリーンに釘付け状態だった。
いよいよ……ENDにさしかかったシーンで、すすり嗚咽がきこえた。つられたわけではないが、ジーンと胸に迫るものがあった。
しかしなぁ~、日本人では絶対と言っていいくらいに描けない質の映画であることは間違いない。
「もっと覚悟をして観に行けばよかった」と思っている。
養老先生が最後におしゃっている。
『ノアに共感はしたけれど、自分は違うなと思いました。もし神の啓示を受けても「降ります。他の人にしてください。もっと適任者がいますって」と言って逃げるだろうな(笑)』
観る前に読んだときと、観てから読みかえした今では、言葉の重さが違ってしまった。
昨日、朝一で「ノア 約束の舟」、映画を観ていたときのことだ。
つまり、最後に選択される「慈悲と愛」のために、次から次へと重ねられる緊迫感に身じろぎすら出来なかった。
神から選ばれし者として、使命を忠実に果たすためのに、容赦なく残酷な行為にも一心不乱に突き進むノアの物語である。
「過酷な自然の中から生まれた宗教が伝える伝説の物語に、圧倒されるばかりだ」と。
日本人の感性ではついていけないほど、善と悪が峻別される。
そして家族との葛藤の中で、神の使命を全うしようとする人間の苦悩が、残酷なまでに冷徹に描かれる映画をはじめて観た、と思えた。
決して気持ちのいい映画ではない。ユーモアもなければ、喜びも哀しみもない。
「人間って、こんな存在なのだろうか。これが原罪を背負って生きるということか。これがひとつの原点なのだろうか」
日本人として、自分には、なかなかに厳しい。
しかし、人間の本性に悪が存在し、他者や、他の生ものの多くを踏みつけにしても生きたい欲望がないとは言えないことを容赦なく描き出す。
スクリーンから目が離せない体の内側では、血圧が上がる一方だ。
なのに映画の途中で席を立つ行動をとる気持ちは、微塵も起こらなかった。
そもそもこの映画をなんとしても早く見に行きたい思いに駆られたのは、読んでいる本の内容を確かめたかったことが理由のひとつだった。
半分を少し超えた本『宗教改革の物語』佐藤優著 角川書店 16世紀の宗教改革に先立って、改革の先鞭をつけたチェコの宗教者フスからはじまる物語。神学論争は単なる形而上のことではない。選ばれし者として重荷を負い、主体性を持って邁進する。その行為の先に火刑という人間が下す裁きが待ち受けているフスもまたもうひとりのノアなのかもしれない。
宗教改革が近代という時代を拓き、民族、国家といった概念を形ずくっていく過程が物語られているらしい(まだ最後まで到達していないので、“らしい”です)
もう一冊は『資本主義の終戦と歴史の危機』水野和夫著 集英社新書 である。こちらは一気に読み進めることができる。見事な文明論、宗教論、文化論である。この本については書きたいことがたくさんあるが、一つだけ、殊に映画に誘われたところだけ触れておきたい。
ページ160、美術史家ジョン・エルストナーとケント大学教授ロジャー・カーディナルは『蒐集』のなかで《「ノアの箱舟のノアがコレクターの第一号」とも言っていますから、キリスト教誕生以来、キリスト教は霊魂を、資本主義以前の帝国システムにおいては、軍事力を通じて領土、すなわち農産物を、そして資本主義は市場を通じて物質的なもの、最終的には利潤を「蒐集」するのです。ノアから歴史が始まったキリスト教社会にとって、資本主義は必然的にたどり着く先だったわけです。資本主義とは人類史上「蒐集」にもっとも適したシステムだったからこそ、中世半ばになってローマ教会は「利子」や「知識の解放」など、本来禁じていたことを認めるようになったのです。》
エコノミストが描く宗教と経済の物語が投げかける意味は大きいと思いつつ、たまたま同時期に公開になった映画を見に行くことにした、というわけ。
さて、「使命を引き受けることとは、責任の所在を明確にすることとは、キリスト教が描く正義とは、主体的に生きる人間とは……、何か」。
この映画には、すべてが描かれている。
重すぎるし難しかった。
とはいえ今の日本に置き換えてみると、「原発事故」の後の問題。「集団的自衛権」の問題、「TPP交渉」の問題、「世界のエネルギー」問題、等々について、日本が西欧的な価値観とどのように対峙していくのかを考えるとき、二冊の本と映画「NOAH(原題)」は、はずせないと感じている。
さておき、水曜日の映画館の客は、女性が9割だった。もちろん私の隣には、友達と連れ立った若い女性が座っていた。彼女達も身じろぎ一つせずにスクリーンに釘付け状態だった。
いよいよ……ENDにさしかかったシーンで、すすり嗚咽がきこえた。つられたわけではないが、ジーンと胸に迫るものがあった。
しかしなぁ~、日本人では絶対と言っていいくらいに描けない質の映画であることは間違いない。
「もっと覚悟をして観に行けばよかった」と思っている。
養老先生が最後におしゃっている。
『ノアに共感はしたけれど、自分は違うなと思いました。もし神の啓示を受けても「降ります。他の人にしてください。もっと適任者がいますって」と言って逃げるだろうな(笑)』
観る前に読んだときと、観てから読みかえした今では、言葉の重さが違ってしまった。