羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

MOBILEに慣れるうちに感じること……作曲法

2011年05月14日 07時47分07秒 | Weblog
 1月から4月まで、いくつもの機種の初期設定をおこなった。そして編集の仕方や使い勝手を知るにつけて、次第に懐かしさを感じた。
 更にUstやYouTubeやFacebook等々のアカウントを取得したりする書き込みをするうちに、通底する法則がおぼろげながらも感じられるようになってきた。

 いくつかのコードがあって、その組み合わせでなりたっているのではないか、といった感覚なのだ。音楽の勉強をしている頃の懐かしさなのだ。
「それって西洋クラシック音楽の理論と作曲法に似ている」
 この場合の作曲法は印象派の音楽やその後の現代音楽ではない。
 12音平均率を守り、古典的な手法の内の理論、と思えるのだ。
 五線譜に記号で音を記していく。音の高さや長さを音符に置き換える。それをあるコードの中で流れの道を造っていく発想。ソロ、デュエット、トリオ、カルテット。さらにオーケストラのスコア。さらにオペラ、というように大きな編成になっていく。
 
 音を音符に置き換える発想は、音程を振動数に換算するデジタル化に通じる。まさにコンピューターに通じる感性から生まれたとしか思えない。
 元に戻せば、古典派からロマン派の音楽をアナリーゼする学びがあるが、その道を逆にたどるのが、コンピューターにつなげる初期設定であったり、編集機能であったり、隠されている機能を呼び出す方法であるように感じる。これは私の感じでしかありませんが。

 さて、そして、それを活かすのは、個人の発想である。そして発想のまえに”発想の種”となる「何か」が、身体のうちがわになければ方法を知っただけでおわる。感覚で捉えた種を、想像力と創造力で膨らませることに由来することらしい。きっとMacintoshにはまったから、そう強く感じるのかもしれない。
 ソフトを開発していくアイデア、生まれたソフトを活かしていく無限の可能性は、コンピューターに関わる個人の問題なのだと得心した。
 何をどのように発信したいのか。つまり「個」に由来する問題だった。

 一方で、個人を際立たせるものがあった。
 それを感じたのは、Facebookのアカウント取得したときだった。
 個人の書き込みをしていくうちに、これは政治的な利用が可能なツールだと思った。
 住所、氏名、誕生年月日、性別まではどうってことはない。そこから学歴、家族、宗教、政治、趣味(読書、音楽、映画、ゲーム、その他)、丁寧に書き込めば、ほとんど個人が特定できる。書き込むか書き込まないかは任意だけれど、なんとなくズルズルと書き込んでしまうところがミソだ。
 
 そしていちばん驚いたことがある。
 どこで手に入れたのだろうと勘ぐりたくなる「お友達になりませんか」情報だ。個人のコンピューター上の連絡先に入り込まなければ、得られないようなお友達まで載ってくる。
 想像をたくましくすれば、メールのやり取りしているなかに入って、特定してきたかのように思える情報までも含まれているのだった。
 私の場合、8年ほど前に父が入院していた病院の医師と、亡くなったあとに一回ほど相互にメールをやり取りをした。その医師の名と写真が貼付されて「お友達になりませんか」情報に、最初から入ってきていた。これには背筋が寒くなった。

 いいたいことは、「個人情報保護法」はなぜあるのだ、と言わんばかりの情報の流れの道を、誰かが持っていることの証ではないか、ということだ。
 ではやめるのか、と問われれば、やめないと答える。だって、既に情報は流れ出しているのだから、やめたところで時すでに遅しであろう。

 情報って何なの?
 いや、その前に、国家ってなに?個人ってなに?
 依って立つところをもう一度確かめてみないといけないかも!
コメント (2)
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