必ずしも‘寂寥’という言葉がぴったりとは思えない。
むしろ和語の‘物悲しさ’の方が私の気持ちに寄り添った言葉かもしれない。
如何にも唐突な物言いとなってしまったが、今日、年賀状の宛名書きをしているときにふっとからだに忍び込んだ情感なのである。
本当は来客があるはずだった。しかし、よんどころない事情から、来られない電話が早朝に入った。
空いた時間に、賀状書きとなったわけだ。父が亡くなり、母も八十歳をとうに過ぎて、最近では自分で書くことをやめてしまった。そこで私が代わりに、両親の関係者にも出すことになって数年がたつ。
階下からそうした方々の住所録をもって上がり、‘あ行’からページを繰った。
めくるごとに、父がつけ、続いて母が印を入れた物故者が多くなっている。
あの人も、この人も、亡くなってしまったのか。
‘な行’のところを開いたとき、胸の中に寂寥とした風が吹き込んだ。
「野口三千三」の名前のところに、その印を見つけたからだった。
昨年も、一昨年も、認めた印だったのに、なぜ、今年に限ってそのような気持ちになったのだろう。
もう一度‘あ行’から、亡くなった方々の名前を確かめた。
母の寂しさが、わかる気がした。老いるということはそういうことなのだ、と。
年賀状を書く気持ちを失う。多分、住所録を見ると辛くなるのだろう。
その年齢に達しなければ、その年齢の気持ちはわからない。
還暦には還暦の、喜寿には喜寿の、白寿には白寿の……。
今年は、宛名書きをしながら、一人一人のお顔を浮かべながら、過ぎ行く時の重さをずしりと感じた。
むしろ和語の‘物悲しさ’の方が私の気持ちに寄り添った言葉かもしれない。
如何にも唐突な物言いとなってしまったが、今日、年賀状の宛名書きをしているときにふっとからだに忍び込んだ情感なのである。
本当は来客があるはずだった。しかし、よんどころない事情から、来られない電話が早朝に入った。
空いた時間に、賀状書きとなったわけだ。父が亡くなり、母も八十歳をとうに過ぎて、最近では自分で書くことをやめてしまった。そこで私が代わりに、両親の関係者にも出すことになって数年がたつ。
階下からそうした方々の住所録をもって上がり、‘あ行’からページを繰った。
めくるごとに、父がつけ、続いて母が印を入れた物故者が多くなっている。
あの人も、この人も、亡くなってしまったのか。
‘な行’のところを開いたとき、胸の中に寂寥とした風が吹き込んだ。
「野口三千三」の名前のところに、その印を見つけたからだった。
昨年も、一昨年も、認めた印だったのに、なぜ、今年に限ってそのような気持ちになったのだろう。
もう一度‘あ行’から、亡くなった方々の名前を確かめた。
母の寂しさが、わかる気がした。老いるということはそういうことなのだ、と。
年賀状を書く気持ちを失う。多分、住所録を見ると辛くなるのだろう。
その年齢に達しなければ、その年齢の気持ちはわからない。
還暦には還暦の、喜寿には喜寿の、白寿には白寿の……。
今年は、宛名書きをしながら、一人一人のお顔を浮かべながら、過ぎ行く時の重さをずしりと感じた。