羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

散華

2008年12月17日 09時45分05秒 | Weblog
 我が家は浄土宗である。
 唐突な始まりで、申しわけない。
 というのも、今朝、先日の七回忌の読経の際に、いただいてきた‘散華’の四枚の裏を返してみて驚いたからだ。
 
 これまで四十九日(納骨)、新盆、一周忌、三回忌、そして七回忌と、法要を行うたびに散華の花びら代わりの印刷物をもらってきたが、今回のもののなかには金色の紙に蓮の花や雅楽で使われる楽器等が描かれているものが混じっていた。
「散華の絵は自分で描きます」と、瀬戸内寂聴さんが書かれた文章を読んだことがある。
 法要には散華が欠かせないらしい、などと思い出しながら、パソコンの脇に置いてあった‘散華’を、何気なく裏返してみた。
 裏は銀色。そこに白抜き文字が書かれていた。

《忍辱(にんにく)-耐え忍び いからぬ心》
《禅定(ぜんじょう)-安定した ゆたかなこころ》

 寺の住職さんは、説教というものをほとんどしない。
 しかし、三日も過ぎてから、こうしたことばを目にすると、このための法事か、と苦笑してしまった。
 
 実は、私が‘散華’をもらってくるには、もう一つのわけがある。
 それは、体操のレッスンのなかで、それらを披露するためである。
 まだ実際に見たことはないが、東京の無形文化財になっている浅草神社の祭礼で奉納される‘田楽舞’に、リズムを刻む‘びんざささら’が使われているという。この楽器が、背骨のモデルとして非常によい。
 この楽器、一片、一片の、檜の板は固い。しかし、部分は固くても、紐で結ばれて長くなると、柔らかな揺れが伝わる。その形と動きが、背骨の動きのイメージを豊かにしてくれる。固い人体模型の背骨では、伝えられない動きなのだ。
 そして、この楽器のルーツの話も付け加えている。
 そのためにいつの頃からか思い出せないが、一冊の美術本をご覧にいれることにしている。
 それは平安期に描かれた「阿弥陀聖衆来迎図」(現在は高野山にあるらしい))である。そこには現存する雅楽の楽器がほとんど描かれているのだが、この‘びんざささら’もその一つである。
 
 絵には、阿弥陀様を中心に地蔵尊や天女、行く雲に流れる水、樹木、そして散華の花びらが描かれている。
 その絵に描かれている‘散華’の伝統がそのまま現代の寺の行事に活かされていることを説明するために、もらってくるのだった。
 
 実際に開いた仏画の上に散華を数枚重ねて見せると、ほとんどの場合、「オォー」と声が挙がる。たとえそれが印刷物の‘散華’であっても、「まさか」という驚きが各人のなかに起こり、それがそのままことばにはならないものの静かな喚声となってあらわれるのだ。
 
 そこで私は、今回は意識的に、まかれた散華のなかから、今までに見なかった絵柄の数枚をいただいてきた。

 そして裏を返したのが、今朝のことだった、というわけ。
 教訓一つ。
 何事も、裏を返してよーく見よ!
コメント
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