電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

「仁」再放送をきっかけに、角田房子『碧素・日本ペニシリン物語』を読む

2011年01月10日 06時08分36秒 | -ノンフィクション
先の「JIN~仁~レジェンド」2夜連続放送がたいそうおもしろく、とくにペニシリン精製法のところ(*1)など、理系魂をくすぐります。ペニシリンに猛烈に興味がわき、あちこち検索して調べているうちに、角田房子著『碧素・日本ペニシリン物語』という書名に行き当たりました。そういえば、学生時代に岩波講座『現代生物科学』の月報で、戦時中のペニシリン研究の話を読んだことがあり、大学で恩師と話題にしたことがあることを思い出しました。チトクロムの奥貫一男先生や東北大医学部の黒川先生なども研究しておられたはずだ、というようなことを聞いて、へぇ~と驚いたものです。

残念ながら、昭和53年に刊行された本書は、すでに絶版品切れになっているようで、書店で入手することは望めません。そこで、山形県立図書館のホームページ(*2)から、山形県内の図書館蔵書の横断検索を試みたところ、県立図書館と天童市立図書館に、各一冊ずつ所蔵されていることがわかり、先日借りてきたところです。



太平洋戦争の開戦を間近に控えた昭和16年、アメリカから最後の交換船で帰国した陸軍の軍医が持参した雑誌『フォーチュン』に、ペニシリンという新薬の記事が掲載されていました。これに興味を持った陸軍軍医学校教官・稲垣克彦は、文部省科学局調査課で、数冊のドイツの週刊医学雑誌を借り出し、この中に「カビ、細菌より得られた抗菌性物質による化学療法について」という論文を見つけます。これが、稲垣とペニシリンを結びつける出会いでした。この総説によれば、ペニシリンは当時用いられていたサルファ剤が効かない、破傷風、ガス壊疽、敗血症などに顕著な効果があるといいます。稲垣は、同世代の梅沢浜夫、佐藤弘一、鳥居敏雄、増山元三郎らをブレインとして研究会を組織することについて、上層部に上申しますが、そんなものは敵の謀略だろうと、いっこうに取り上げられる気配がありません。

ところが、昭和18年末のカイロ会談に際し、「ペニシリンによりチャーチルの肺炎が回復」というニュースが飛び込み、同19年初めには大きく新聞に取り上げられたために、陸軍省医務局が、日本のペニシリン研究を発足させることになります。このペニシリン委員会は、柴田桂太、奥貫一男、坂口謹一郎、田宮猛雄、細谷省吾、梅沢浜夫ら、医・薬・農・理の錚々たるメンバーが集まり、共同研究という形で、日本のペニシリン研究がスタートします。

まず、日本国内で入手できる様々な青カビ菌株から、ペニシリン産生株を見つけ出し、その産生能力を安定して発揮させるような培養条件を確定しなければなりません。何千種類の株を培養し試験した結果、有望株が三種類、候補として浮上します。また、合成培地では継続が不安定になる培養方法も、蛹の煮汁やコンニャク添加などにより、安定してペニシリン産生株の培養を継続維持できることが分かってきます。

戦局が次第に悪化する中で、研究会とは独自に研究を行っていた東北大学の黒屋政彦らの臨床試験成功のニュースが伝わり、陸軍の極秘ペニシリン研究も着々と成果を重ねていきますが、こんどは大量生産という課題がたちはだかりました。表面培養法では青カビの培養に限度があり、米国のような深層培養法を採用しなければ、多くの負傷者の命を助ける量のペニシリンを製造することはできないのです。しかし、激化する空襲の中、研究会は菌株および資料の一切を、山形県上山市に疎開させることになりました。



「仁」の再放送がきっかけというものではありましたが、終戦までのわずかな期間に、実地に臨床治療に用いられるところまで行った日本のペニシリン研究の、思わず感動してしまう実録物語です。深層培養法の開発まではたどり着けず、大量生産には限界があったとはいうものの、敗戦を見通しながら、目の前の命を救いたいと願った人たちの努力を、ぜひ文庫として再版されることを望みたいものです。

そうそう、私が学生時代に読んだ、岩波講座『現代生物科学』月報も、ぜひもう一度探し出して読んでみたいものです!

(*1):「JIN~仁~レジェンド」を観る:その2~「電網郊外散歩道」2010年12月
(*2):山形県立図書館ホームページ
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