電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

藤沢周平『暗殺の年輪』を読む

2009年10月29日 06時19分07秒 | -藤沢周平
文春文庫で、藤沢周平の直木賞受賞作を含む作品集『暗殺の年輪』を読みました。「黒い縄」「暗殺の年輪」「ただ一撃」「溟い海」「囮」の五編が収録されておりますが、いずれも直木賞候補作または受賞作という、なんとも豪華な、しかしまたなんとも地味な、作品集です。

「黒い縄」。三好町の材木屋の娘おしのは、婚家の義母の仕打ちに耐えかね、実家に戻っています。離縁されてしまったものの、内心では前夫の房吉が訪ねてきてほしいと思っていたのでした。ある日、自分のほうから、旧婚家の店前に行ってはみたものの、義母に見つかってしまいます。逃げ込んだ広徳寺で、お尋ね者の宗次郎に出会い、話をしたのでした。店に出入りの岡っ引の地兵衛が、おしのと母の話を聞きとがめ、執拗な探索を開始します。おしのの心は房吉を忘れ、しだいに宗次郎の安否に移っていきます。そして、おゆき殺しの意外な犯人は……。

「暗殺の年輪」。葛西馨之介は、今は疎遠となっている貝沼金吾から、珍しく自宅に誘われます。そこで、藩の上役から、中老の嶺岡兵吾の暗殺を依頼されます。同時に、近年、周囲の者たちが自分を疎外し笑っていると感じていた原因が、藩の実力者の暗殺に失敗し横死した父と、自分を育ててくれた母にあることを知ります。母は、家名の存続と息子の命乞いのために、嶺岡兵吾に身体を与えたのだ、と。息子に問い詰められ、母は自害します。息子は凶暴な意思を包み、中老暗殺を引き受けるのですが、その陰では、さらに暗い陰謀が待ち構えていたのでした。

「ただ一撃」。主君が、仕官望みのその浪人を、気に入りません。家臣が次々と倒され、敗北を恥じて自害する者も出ます。この男をたたきのめす役に白羽の矢が立ったのは、連れ合いを亡くし洟を垂らした老人、刈谷範兵衛でした。息子は危惧しますが、身の回りを世話する嫁の三緒は、舅の範兵衛を信じます。主君の命を受けた範兵衛は、熊のような敵の姿に武芸者として闘志を燃やし、城下に近い小真木野という原野で、修行に籠ります。その後、家に戻り、畳にごろりと横になり眠りますが、別人のような精悍さを、作者はこんなふうに表現しています。

三緒は押入れを開き、掻巻を引張り出してその上から掛けようとしたが、不意にあ、と手の動きをとめた。範兵衛の腕は、胸に抱くように小刀を抱えている。三緒は横たわった刃を包むように、範兵衛の躰を掻巻で包んだ。範兵衛は、すでに鼾をかいている。(p.171)

この後の展開、範兵衛が三緒を犯し、三緒は懐剣で喉を突いて自害、範兵衛のただ一撃での勝利、そして急速な老いが進む一連の経緯は、息をつかせぬスピードです。
もしかすると、三緒さんは、シンデレラ症候群とでも言えばいいのか、俗っぽい夫君よりも舅殿が若返って白馬にまたがり迎えに来る願望を抱いていたのかもしれません。自らの喜びを恥じ、自害を選んだ陰にある思いは、不可思議なものです。

「溟い海」。連作「富嶽三十六景」で劇的な風景を描いた葛飾北斎も、人気が下火になり荒廃した生活です。恩義ある家に養子に出した息子は、ぐれてやくざな男が借金取りに来る始末。版元の家で会った安藤広重の穏やかな表情と、平凡な描写の中に人生の哀歓を描いた「東海道五十三次」に嫉妬心を燃やします。闇討ちを仕掛けようと待ち伏せた北斎が見たのは、広重の、暗い陰惨な表情でした。

「囮」。彫師の甲吉は、病気の妹を喜ばせる何がしかの金を工面するために、下っ引きの役目を兼ねていました。手配中の綱蔵の情婦おふみの家を見張るうちに。特別な感情を持つようになります。おふみと逢引の約束をしたはずだったのですが、それは綱蔵を逃すための口実だったとは。暗い生活の中でひととき灯った明かりが、再び消えていきます。

作品が発表された昭和46年から48年というと、和子夫人と再婚して2~3年目頃でしょうか。まだ作家生活には入っておらず、業界紙と二股かけた生活は、公私ともに多忙だったことでしょう。
いずれも文章の冴えを感じさせる名作ぞろい。絶望感や暗さは特徴的ですが、衝動的に暴発する絶望感ではなく、むしろ日常の中での救いのなさが描かれています。それも、暗闇の中にちらりと希望や明るさがのぞくけれど、それも消えてしまい、再び暗闇に戻るような描き方です。
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