電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

音楽以外のボロディンの業績

2005年06月03日 20時45分35秒 | -ノンフィクション
記事に対するコメントやトラックバックで、思いがけない視点を得たり、記憶が呼び起こされたりすることがある。つい先日も、「化学者としてのボロディン」という記事(*)にコメントをいただいた。その中に、ボロディンは化学者であると同時に医者でもあった、という指摘があった。
(*):化学者としてのボロディン

これについて、WikiPedia でも書いてない事実がある。それは、彼が勤務する医科大学に、女子課程を創設した、という事実だ。現代であれば、女医さんは普通のことだが、ボロディンが活躍した19世紀中ごろのロシアでは、画期的なことだろう。他の教授陣はどう反応したのか、施設や設備は対応できるのか、カリキュラムはどうするのか、など、難題が山積したことだろう。それらを一つ一つときほぐし、実現にこぎつける努力は、並大抵のことではなかったに違いない。

その多忙さの中で作曲された多くの作品には、美しく幸福な音楽がみちている。かの夜想曲を含む弦楽四重奏曲第二番が、愛妻にささげるために作曲されたと言う、音楽史上まれに見る愛妻家のボロディンのエピソードを思えば、たぶん彼は音楽が全てとは考えておらず、人間性豊かな良き配偶者に恵まれて、多忙な中にも充実した人生を送ったのではないかと想像される。
それと同時に、独創的な音楽を書いたムソルグスキーの孤独で人間的な不幸が際立つように思われる。

以上、ひの・まどか著『ボロディン、ムソルグスキー、リムスキー・コルサコフ』(りぶりお出版)の読書メモより。

ちなみに、津田梅子が創設したのは津田塾大学。日本の帝国大学で初めて女子の入学を許可したのは東北帝国大学(理学部化学科)。当時の文部省から3名の女子学生受験についての詰問状を受け取ったとき、当時の総長が文部省へ出頭、「合格したら入学させる」と大学の意志を貫いたらしい。では、日本で最初の女子医科大学の課程はどこの大学なのだろう。

【追記】
東北帝国大学に初めて女子学生が入学を許可されたのは、理学部化学科が2名、数学科が1名の3名のようです。この件、数学科の1名が抜けていましたので訂正しました。

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