今日一日、曇りではあるが、蒸し暑いはず…でしたが、まるで秋のような涼しさです。その上、こうしている間にも、雨がぱらつき出してきたようで、道を行く人が、傘までさしています。
昨日は疲れました。朝から学校に来ていたのですが、気がついたら既に暗くなっていました。それも、今日の「日光の事前指導」のためなのです。「日光」を語るためには、「日本の歴史」のうち、「安土桃山時代」を、少々入れなければならないのですが、ここで躓いてしまいました。「基本」的な事項もまだ入っていない学生に、何を先走りして語るのかと、また、途中で思い始めたのです。
私の授業は、いつもこうなります。まず、語りたいことがある。判ってもらいたいことがある。それが先なのです。つまり、「後ろの結果」から、順繰りに引いていって、「最初」を決めるのです。勿論、これは、「一級後」の授業に関してですが。
というわけで、CDを起こしているうちに、考えが変わり、またやり直しというのを二度ほど繰り返してしまいました。どんどんやるうちに、これもまだ知らない。これもまだ入れていないという箇所が次から次へと出てきたのです。
まずは、「基本」、まずは「基本」これを何度も言ってみます。それから、「授業の流れ」。そして、最後に「色つけ」であり、「主張」、「歴史観」です。
実は、初めは「信長・秀吉・家康」という、天下取りの三人衆を入れ、次に、現実に「神となった男二人」を語り、「日光東照宮」という宗教的な部分を出すようにしようと考えていたのです。「明神」と「権現」は、東京付近にいる限り、よく聞く神の名でもありますし。
それで、支度をしていたのですが、90分では無理なのです。二回に分けたとしても、合わせて180分。夏休み前に「近現代の世界」を半分ほどは入れておきたいので、当然そんな時間はとれない。というわけで、そこは一歩譲って、「秀吉・家康」と「神二人」にすべく、授業の流れを考えたのです。けれども、信長なくして、安土・桃山を語れるかというと、それはできない相談。
で、「神二人」は止めにして、「信長・秀吉・家康」の天下取りを、まず「年表」を用いて説明し、それから、DVDを見せ、「安土桃山」を終える。そして、残された40分ほどで、「東照宮」の説明に入る。そう決めた後、「年表」作りと、主な「単語」などを入れた「プリント」作りをやっと始めることができました。どうにかこうにか、形らしきものができあがった時には、既に7時を廻っていたという次第。
1時か2時頃には、帰るつもりでしたから、お腹は空いているはずなのに、こういうことをしていると「飢え」は感じないものと見え、ずっと腰掛けたなりでした。それでも、二、三回は立ち上がったでしょうが、やはり、生来の怠け者と見えます。
この学校で、学生を「日光」に連れて行くのも、既に二度目。その都度、「事前授業」はしているのですが、学生が変わるたびに、「内容」も「形」も変えざるを得なくなり、その度にオタオタするというのも困ったものです。彼らの「日本語のレベル」や、授業を受ける時の「態度」も関係しますし、勿論、私の方で、その間、どれだけ(そのことに関する)DVDのストックができているかということにもよります。けれども、何よりも、彼らの「好奇心」が大切なのです。「上級後」や「上級中」ともなりますと。
「初級」レベルであれば、「クラス全体」の資質とでも言いましょうか、それが授業の「形態」や「速度」を決めます。バアッと進められるクラスもあれば、バアッと進んでもいいけれど、必ず、何回かごとの復習に時間をかけねばならぬクラスもあります。これは、そのクラスを教えていなければ、判断がつかぬ事です。
特に「初級」段階で、また「クラスとしての体をなしていない」状態であれば、そうです。まず、「クラス」としての形を作る。それが出来てからこその授業なのです。そのためには、多少時間がかかってもしょうがない。「この学校では、こうする」というのを、その間に、全きまでに、知らしめるのです。
それが出来てからは、多少速く進めていこうが、教師と学生との間には、(勉強に関しての)信頼関係が出来ていますから、それほど問題は起こらないのです。耐え切らなくなったら、「先生、もうだめだ」と言いますから。
まあ、これは冗談で、そう言わせぬように、彼らの状態を見ながら、ジワジワッと進めていくのです。ただ、「クラス」構築のためにかける時間は、一見無駄であるように見えても、決して無駄にはなりません。必ず、あとの一年乃至、一年半ほどは、教師を楽にしてくれますから。
で、今日は、学校に来てから、ブログを書くことなく、まだ「事前指導」の準備をしています。こういうものは、たちが悪い。今日が終わるまで、落ち着きません。「授業」が終わってしまうまでは、どうもまたイライラとしながら、日を過ごしてしまいそうです。
日々是好日
昨日は疲れました。朝から学校に来ていたのですが、気がついたら既に暗くなっていました。それも、今日の「日光の事前指導」のためなのです。「日光」を語るためには、「日本の歴史」のうち、「安土桃山時代」を、少々入れなければならないのですが、ここで躓いてしまいました。「基本」的な事項もまだ入っていない学生に、何を先走りして語るのかと、また、途中で思い始めたのです。
私の授業は、いつもこうなります。まず、語りたいことがある。判ってもらいたいことがある。それが先なのです。つまり、「後ろの結果」から、順繰りに引いていって、「最初」を決めるのです。勿論、これは、「一級後」の授業に関してですが。
というわけで、CDを起こしているうちに、考えが変わり、またやり直しというのを二度ほど繰り返してしまいました。どんどんやるうちに、これもまだ知らない。これもまだ入れていないという箇所が次から次へと出てきたのです。
まずは、「基本」、まずは「基本」これを何度も言ってみます。それから、「授業の流れ」。そして、最後に「色つけ」であり、「主張」、「歴史観」です。
実は、初めは「信長・秀吉・家康」という、天下取りの三人衆を入れ、次に、現実に「神となった男二人」を語り、「日光東照宮」という宗教的な部分を出すようにしようと考えていたのです。「明神」と「権現」は、東京付近にいる限り、よく聞く神の名でもありますし。
それで、支度をしていたのですが、90分では無理なのです。二回に分けたとしても、合わせて180分。夏休み前に「近現代の世界」を半分ほどは入れておきたいので、当然そんな時間はとれない。というわけで、そこは一歩譲って、「秀吉・家康」と「神二人」にすべく、授業の流れを考えたのです。けれども、信長なくして、安土・桃山を語れるかというと、それはできない相談。
で、「神二人」は止めにして、「信長・秀吉・家康」の天下取りを、まず「年表」を用いて説明し、それから、DVDを見せ、「安土桃山」を終える。そして、残された40分ほどで、「東照宮」の説明に入る。そう決めた後、「年表」作りと、主な「単語」などを入れた「プリント」作りをやっと始めることができました。どうにかこうにか、形らしきものができあがった時には、既に7時を廻っていたという次第。
1時か2時頃には、帰るつもりでしたから、お腹は空いているはずなのに、こういうことをしていると「飢え」は感じないものと見え、ずっと腰掛けたなりでした。それでも、二、三回は立ち上がったでしょうが、やはり、生来の怠け者と見えます。
この学校で、学生を「日光」に連れて行くのも、既に二度目。その都度、「事前授業」はしているのですが、学生が変わるたびに、「内容」も「形」も変えざるを得なくなり、その度にオタオタするというのも困ったものです。彼らの「日本語のレベル」や、授業を受ける時の「態度」も関係しますし、勿論、私の方で、その間、どれだけ(そのことに関する)DVDのストックができているかということにもよります。けれども、何よりも、彼らの「好奇心」が大切なのです。「上級後」や「上級中」ともなりますと。
「初級」レベルであれば、「クラス全体」の資質とでも言いましょうか、それが授業の「形態」や「速度」を決めます。バアッと進められるクラスもあれば、バアッと進んでもいいけれど、必ず、何回かごとの復習に時間をかけねばならぬクラスもあります。これは、そのクラスを教えていなければ、判断がつかぬ事です。
特に「初級」段階で、また「クラスとしての体をなしていない」状態であれば、そうです。まず、「クラス」としての形を作る。それが出来てからこその授業なのです。そのためには、多少時間がかかってもしょうがない。「この学校では、こうする」というのを、その間に、全きまでに、知らしめるのです。
それが出来てからは、多少速く進めていこうが、教師と学生との間には、(勉強に関しての)信頼関係が出来ていますから、それほど問題は起こらないのです。耐え切らなくなったら、「先生、もうだめだ」と言いますから。
まあ、これは冗談で、そう言わせぬように、彼らの状態を見ながら、ジワジワッと進めていくのです。ただ、「クラス」構築のためにかける時間は、一見無駄であるように見えても、決して無駄にはなりません。必ず、あとの一年乃至、一年半ほどは、教師を楽にしてくれますから。
で、今日は、学校に来てから、ブログを書くことなく、まだ「事前指導」の準備をしています。こういうものは、たちが悪い。今日が終わるまで、落ち着きません。「授業」が終わってしまうまでは、どうもまたイライラとしながら、日を過ごしてしまいそうです。
日々是好日