今朝も晴れです。お向かいのマンションは土台ができあがり、今は少しずつ鉄骨を上げていくところなのでしょうか。今までは見えなかった工事中のおじさん達がよく見えるようになりました。
けれども、大変ですね。地下の硬い土のところまで、太い鉄の杭を何十本も打ち込み、それが済んでもまだまだ簡単に積み上げていくというわけにはいかないようなのです。お向かいでそれをやっていると、(毎日見ているわけですから)よくわかります。大手企業が(それなりの資金を元手に)やっていくとするなら、こうだというのが、姿勢にも窺われます。
新幹線の技術もそうですが、地震対策の技術やら、ハウスダスト問題やら、また最近は温暖化対策として屋上に畑や庭を造るというビルも増えていますから、その技術も必要でしょう。そして、それらを現場に活かすために、こういうところには、絶えず基礎研究を続けている人達がいのでしょうね。
そういうことを思うと、日本語学校を卒業して専門学校や大学、大学院へ行けたとしても、仕事というのがアルバイトで終わっているような学生達が、何だか、寂しく思えてきます。「アルバイトで学んだ」といっても、それは所詮、アルバイトで使える技術や知識でしかないのです。日本で正規に働かなければ、日本の本当の良さ、あるいは厳しさは分からないのになあと残念になってくるのです。私も初めて仕事を始めた時に「石の上にも三年だよ」とある人からいわれました。
三年やらないと、結局は(その仕事の)何が何だか分からないのです。しかも、責任ある仕事は回してもらえません。アルバイトで責任を持たされていると学生は言いますが、それはアルバイトでもできることと会社側が見ているだけのことで、職名で踊らされている学生達がかわいそうでなりません。つまり、その人が休んだら、だれでもできるようなことでしかないのです。
日本語学校の二年間を入れ、専門学校であれば、併せて四年。大学であれば、併せて六年。それだけの期間、日本でアルバイトをしていようとも、日本の会社や工場の良さを発見できるような学生はホンの一握りにしか過ぎません。自国で厳しく働いた経験があり、しかも向上心がなければ、見えてこないのです。それも無理からぬこととは思いますが。学生側にしてみれば、技術云々や働き方がどうのこうのというよりも、楽にたくさんお金を稼げれば、それでいいというだけなのですから。
日本語学校でまじめに出席しておれば、そしてもし、普通の進度で行けるようなクラスにいたとすれば、(ある程度のことは)できるだけ広く偏りのないように様々のことを教えていけるのですが、そうではなく、せいぜい(卒業までに)「上級レベル」の教材で終わってしまうようであれば、教科書の内容の理解やら、漢字や単語の知識がまだ不十分というわけですから、それから枝や葉をのばしていける授業などできるはずもないのです。できるだけ入れようとしても、多分入れれば、その一つことをとって、「日本はこうだ」とおめきまわる人もなきにしもあらずなのです。
時には、「非漢字圏」の学生の中には、もう半年ほども(この学校に)いられれば(次のクラス、つまり次年度の一番上のクラスと)、いろいろなことを入れることができるのにと思えないこともない学生もいるのですが、そう言う人に限って、短絡的な思考をしてしまうのです。自国での思考回路が、他国を認識しようとするときには役に立たないこともあるということが実感できていないのです。何といいましても、ここで学べるのは(留学生であれば)最長で二年しかないのですから。しかも、最後の半年ほどは、受験準備やら、「留学生試験」「日本語能力試験」の対策に逐われます。
文学教材をできるだけ入れて、表現力を高めさせると共に、情操教育などの一端を担おうというのは、無理なのかもしれません。その上、その合間合間に「社会問題(時事的なもの)」を「専門家の見方」なども参考にさせながら、自国の実態に即した考え方ができるようにさせようというのですから、全く欲張りも極めりというところなのかもしれません。なんと言いましても、自国の実情を知らされていないのです。日本語で書かれたもの、放送されたものなら多々あれど、自国の言葉で書かれたり、放送されたりしたものがないのです。ですから、どうしても理解は通り一遍的なものになりがちです。それが、あまり勉強していなかった、あるいは高校を出たばかりでそう言う分野の知識に疎いというのならともかく、それなりの高学歴で、本人もそれを誇り、言葉の端々にそれを衒いながら、そうなのですから、たまったものではありません。
中には、何でも自国がすばらしく、他国の欠点ばかり見つけてはそれを非難しているようなタイプの学生もいます。そういう人に彼らの国の現状を見せると(映像というのは力があります。否定はできないのです。自分の国のことですから、一見すれば、他国ではないということがすぐ分かるはずです)、「ちょっとはそうかもしれないけれど、日本はこうだ」と、すぐに話しをすり替えようとします。
素直さというのは、個人の性格であると切って捨てるような代物ではなく、それは「天賦の才」であると、その都度思います。何を学ぶにせよ、素直さという、この能力を持っている人は強い。本当に強い。いろいろな技術や知識を、他の誰よりも先に(ある程度のレベルまでは)手に入れることができるのですから。ただ、その、ある程度以上は、それぞれの人の、その方面の才能の有無、またはそれの多寡によるのでしょうが。
日々是好日
けれども、大変ですね。地下の硬い土のところまで、太い鉄の杭を何十本も打ち込み、それが済んでもまだまだ簡単に積み上げていくというわけにはいかないようなのです。お向かいでそれをやっていると、(毎日見ているわけですから)よくわかります。大手企業が(それなりの資金を元手に)やっていくとするなら、こうだというのが、姿勢にも窺われます。
新幹線の技術もそうですが、地震対策の技術やら、ハウスダスト問題やら、また最近は温暖化対策として屋上に畑や庭を造るというビルも増えていますから、その技術も必要でしょう。そして、それらを現場に活かすために、こういうところには、絶えず基礎研究を続けている人達がいのでしょうね。
そういうことを思うと、日本語学校を卒業して専門学校や大学、大学院へ行けたとしても、仕事というのがアルバイトで終わっているような学生達が、何だか、寂しく思えてきます。「アルバイトで学んだ」といっても、それは所詮、アルバイトで使える技術や知識でしかないのです。日本で正規に働かなければ、日本の本当の良さ、あるいは厳しさは分からないのになあと残念になってくるのです。私も初めて仕事を始めた時に「石の上にも三年だよ」とある人からいわれました。
三年やらないと、結局は(その仕事の)何が何だか分からないのです。しかも、責任ある仕事は回してもらえません。アルバイトで責任を持たされていると学生は言いますが、それはアルバイトでもできることと会社側が見ているだけのことで、職名で踊らされている学生達がかわいそうでなりません。つまり、その人が休んだら、だれでもできるようなことでしかないのです。
日本語学校の二年間を入れ、専門学校であれば、併せて四年。大学であれば、併せて六年。それだけの期間、日本でアルバイトをしていようとも、日本の会社や工場の良さを発見できるような学生はホンの一握りにしか過ぎません。自国で厳しく働いた経験があり、しかも向上心がなければ、見えてこないのです。それも無理からぬこととは思いますが。学生側にしてみれば、技術云々や働き方がどうのこうのというよりも、楽にたくさんお金を稼げれば、それでいいというだけなのですから。
日本語学校でまじめに出席しておれば、そしてもし、普通の進度で行けるようなクラスにいたとすれば、(ある程度のことは)できるだけ広く偏りのないように様々のことを教えていけるのですが、そうではなく、せいぜい(卒業までに)「上級レベル」の教材で終わってしまうようであれば、教科書の内容の理解やら、漢字や単語の知識がまだ不十分というわけですから、それから枝や葉をのばしていける授業などできるはずもないのです。できるだけ入れようとしても、多分入れれば、その一つことをとって、「日本はこうだ」とおめきまわる人もなきにしもあらずなのです。
時には、「非漢字圏」の学生の中には、もう半年ほども(この学校に)いられれば(次のクラス、つまり次年度の一番上のクラスと)、いろいろなことを入れることができるのにと思えないこともない学生もいるのですが、そう言う人に限って、短絡的な思考をしてしまうのです。自国での思考回路が、他国を認識しようとするときには役に立たないこともあるということが実感できていないのです。何といいましても、ここで学べるのは(留学生であれば)最長で二年しかないのですから。しかも、最後の半年ほどは、受験準備やら、「留学生試験」「日本語能力試験」の対策に逐われます。
文学教材をできるだけ入れて、表現力を高めさせると共に、情操教育などの一端を担おうというのは、無理なのかもしれません。その上、その合間合間に「社会問題(時事的なもの)」を「専門家の見方」なども参考にさせながら、自国の実態に即した考え方ができるようにさせようというのですから、全く欲張りも極めりというところなのかもしれません。なんと言いましても、自国の実情を知らされていないのです。日本語で書かれたもの、放送されたものなら多々あれど、自国の言葉で書かれたり、放送されたりしたものがないのです。ですから、どうしても理解は通り一遍的なものになりがちです。それが、あまり勉強していなかった、あるいは高校を出たばかりでそう言う分野の知識に疎いというのならともかく、それなりの高学歴で、本人もそれを誇り、言葉の端々にそれを衒いながら、そうなのですから、たまったものではありません。
中には、何でも自国がすばらしく、他国の欠点ばかり見つけてはそれを非難しているようなタイプの学生もいます。そういう人に彼らの国の現状を見せると(映像というのは力があります。否定はできないのです。自分の国のことですから、一見すれば、他国ではないということがすぐ分かるはずです)、「ちょっとはそうかもしれないけれど、日本はこうだ」と、すぐに話しをすり替えようとします。
素直さというのは、個人の性格であると切って捨てるような代物ではなく、それは「天賦の才」であると、その都度思います。何を学ぶにせよ、素直さという、この能力を持っている人は強い。本当に強い。いろいろな技術や知識を、他の誰よりも先に(ある程度のレベルまでは)手に入れることができるのですから。ただ、その、ある程度以上は、それぞれの人の、その方面の才能の有無、またはそれの多寡によるのでしょうが。
日々是好日