快晴。そして、今日は卒業式。お日様を見て、ほっとしています。
実は、この学年の学生の中には(私はこの学年だと、確信しているのですが)、だれか強烈な「雨女(男)」がいて、学校で何かやる時には、常に雨を降らしているのです。時には予期せぬ豪雨であったこともありました。
そんなわけで、ぎりぎりまで心配だったのです。いつかも、一週間前に見た時には「晴れマーク」が、しっかりとついていましたのに、予定日が近づくにつれ、「雨マーク」もどんどん迫って来、そして当日は、やはりと言いましょうか、「雨」になってしまいました。
「入学式」は、それほど凝ることもないので、雨でも構わないのですが、「卒業式」ともなると、学校だけでなく学生の方でも「リキ」が入るようで、民族衣装で来たりすることもあるのです。民族衣装というのは、裾が長かったり、薄手であったりしますから、雨や寒さに弱いのです。寒い日だと「寒い。寒い」と震えるようなことにもなりかねませんし、雨が降れば降ったで、せっかくの衣装が濡れてしまいます。この学校の学生達は、中国やロシアから来ている人を除けば、大半は南国出身ですから、余計にお天気が気になるようなのです。
おまけに、今年は一人、髪に凝ると明言している学生がいるのです。
「卒業式」には、「卒業生」は十二時半に来るように言いますと、
「先生。だめ、着替えに時間がかかる」
「時間がかかるなら、早く起きて着替えればいいでしょう」
「だめ。髪にいろいろつけるから、うちからは嫌だ」
いろいろと凝るタイプのようですし、速くさっさっとやれる人でもない。ということで、今日は一応彼女のことは、見て見ぬ振りをしながら、どっかに置いておいて、卒業式の準備に、皆、励むことになります。
とはいえ、当日やらねばならぬこと以外、大方は終わっているのです。若い人達が慣れてきたということもあるでしょうが、例年のように問題が起きるということもなく、驚くほど準備が速く進んでいました。
そんなわけで、「1月生」のうち、学校に残って勉強していた学生達に、「卒業証書」の印押しやら、準備の様子やらを見せてやることもできました。一度、こういう「卒業式」を見ていると、自分もそれまで頑張ろうという気になるようです。これは、国によっては大学を卒業しない限り、こういう経験はできないということとも関係があるのでしょう。
もしかしたら、日本だけかもしれません。考えてみれば、これはとても不思議なことです。
日本のような忙しい国で、それをまた忙しくするような「入学式」「卒業式」を常にやっているのですから。
「保育園」に通っていれば、おそらく「保育園」の時から「入学式」「卒業式」を経験しているでしょうし、そうでなくとも普通は「幼稚園」からですから、「幼稚園」、「小学校」、「中学校」、「高校」、「大学」。そして社会に出ても「入社式」と人生の区切り毎に「式」はついて回ります。
南国で、しかも毎日の生活が、ほとんど単調に流れていく村や国であれば、こういう「お祭り」こそ、多そうですのに、意に反して、それが何もないのです。
日本人は常に区切りをつけたがるというのは本当です。区切りさえつけておけば、「転生(生まれ変わる」したことになるとでも思っているかのように。
そう言えば、子供の時、いつも誰かが卒業文集にこんなことを書いていましたっけ。小学校を卒業する時には、「中学生になったら頑張る」。高校を卒業する時には、「高校生になったら頑張る」。これも、その区切り毎に、「生まれ変わってやれるに違いない。そうであるはずだ」という一種の信仰めいたものなのかもしれません。まあ、そうは言いましても、その「頑張る」信仰は、たいてい裏切られているのですが。
日々是好日
実は、この学年の学生の中には(私はこの学年だと、確信しているのですが)、だれか強烈な「雨女(男)」がいて、学校で何かやる時には、常に雨を降らしているのです。時には予期せぬ豪雨であったこともありました。
そんなわけで、ぎりぎりまで心配だったのです。いつかも、一週間前に見た時には「晴れマーク」が、しっかりとついていましたのに、予定日が近づくにつれ、「雨マーク」もどんどん迫って来、そして当日は、やはりと言いましょうか、「雨」になってしまいました。
「入学式」は、それほど凝ることもないので、雨でも構わないのですが、「卒業式」ともなると、学校だけでなく学生の方でも「リキ」が入るようで、民族衣装で来たりすることもあるのです。民族衣装というのは、裾が長かったり、薄手であったりしますから、雨や寒さに弱いのです。寒い日だと「寒い。寒い」と震えるようなことにもなりかねませんし、雨が降れば降ったで、せっかくの衣装が濡れてしまいます。この学校の学生達は、中国やロシアから来ている人を除けば、大半は南国出身ですから、余計にお天気が気になるようなのです。
おまけに、今年は一人、髪に凝ると明言している学生がいるのです。
「卒業式」には、「卒業生」は十二時半に来るように言いますと、
「先生。だめ、着替えに時間がかかる」
「時間がかかるなら、早く起きて着替えればいいでしょう」
「だめ。髪にいろいろつけるから、うちからは嫌だ」
いろいろと凝るタイプのようですし、速くさっさっとやれる人でもない。ということで、今日は一応彼女のことは、見て見ぬ振りをしながら、どっかに置いておいて、卒業式の準備に、皆、励むことになります。
とはいえ、当日やらねばならぬこと以外、大方は終わっているのです。若い人達が慣れてきたということもあるでしょうが、例年のように問題が起きるということもなく、驚くほど準備が速く進んでいました。
そんなわけで、「1月生」のうち、学校に残って勉強していた学生達に、「卒業証書」の印押しやら、準備の様子やらを見せてやることもできました。一度、こういう「卒業式」を見ていると、自分もそれまで頑張ろうという気になるようです。これは、国によっては大学を卒業しない限り、こういう経験はできないということとも関係があるのでしょう。
もしかしたら、日本だけかもしれません。考えてみれば、これはとても不思議なことです。
日本のような忙しい国で、それをまた忙しくするような「入学式」「卒業式」を常にやっているのですから。
「保育園」に通っていれば、おそらく「保育園」の時から「入学式」「卒業式」を経験しているでしょうし、そうでなくとも普通は「幼稚園」からですから、「幼稚園」、「小学校」、「中学校」、「高校」、「大学」。そして社会に出ても「入社式」と人生の区切り毎に「式」はついて回ります。
南国で、しかも毎日の生活が、ほとんど単調に流れていく村や国であれば、こういう「お祭り」こそ、多そうですのに、意に反して、それが何もないのです。
日本人は常に区切りをつけたがるというのは本当です。区切りさえつけておけば、「転生(生まれ変わる」したことになるとでも思っているかのように。
そう言えば、子供の時、いつも誰かが卒業文集にこんなことを書いていましたっけ。小学校を卒業する時には、「中学生になったら頑張る」。高校を卒業する時には、「高校生になったら頑張る」。これも、その区切り毎に、「生まれ変わってやれるに違いない。そうであるはずだ」という一種の信仰めいたものなのかもしれません。まあ、そうは言いましても、その「頑張る」信仰は、たいてい裏切られているのですが。
日々是好日