日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「日本列島『運命共同体』」。「『公私』の別」。「『例外』を認める『心の余裕』」。

2009-07-27 07:55:31 | 日本語の授業
 さっきまで、日差しが激しく降り注いでいましたのに、今は、日も翳り、ひんやりとした風まで吹いています。空を見ると、雲が浅いところを走っています。それもかなりのスピードで。九州や山陽地方を、梅雨末期の集中豪雨の雲が、幾日も居座って、死者やけが人が多く出ました。亡くなった方々のご冥福を、心よりお祈りいたします。

 日本に住んでいれば、すべての「天災」は、他人事ではないのです。「明日はわが身」なのです。ここ、日本列島に「居住している人」というのは、「地震の巣」の上で、生活しているようなもので、災害に遭う時は一緒なのです。貴賤もありません、貧富も関係ありません。もし、差が出るとしたら、「運」の有無だけでしょう。

 その上、大陸に近い海上に、空の流れを遮るように、弓なりの島が連なっているわけですから、フェーン現象も起きます。豪雨・豪雪も来ます。大風も吹きます。その親玉たる台風も来ます。どこが襲われても不思議ではないのです。

 いわば、そこに住む人々の一人一人は、「運命共同体」の一員たることを、宿命づけられているのです。そのことを忘れてしまうと、おそらく「政治」も「経済」も「教育」も、何もかもが、うまくいかなくなってしまいます。歯車が狂ってしまうのです。それで、「単一民族」だの、「単一文化」の国だのと言われているわけなのですが、もとから「単一」であったのではありません。この地に住む人々の体型、顔かたちを見ればすぐに解ることです。

 私も、中国に行くまでは、それほど意識していなかったのですが、中国で、美大に通っている日本人留学生から、「デッサン」に関する話を聞いて、「なるほど、(日本人は)単一ではないわいな」と思うようになりました。

 彼女が話したのは、「裸婦デッサン」のことです。つまり、北方の中国人は、皆、同じ体型で、「つまらない」のだそうなのです。日本人から見れば、「かっこいい」とでも言うべき、すらりとした体型も、来る人来る人が、みな「金太郎飴」であれば、厭いてしまう。その上、竹のようなので、デッサン力を高めるためにも、役に立たないのだ。個としての面白味がないと言うのです。

 中国も国が大きいので、南と北では違うだろうし、北方でも、いくつか大きな民族がいるから、そういうものでもないだろうと言ったのですが、一言で退けられてしまいました。「同じ、同じ。日本で裸婦デッサンをしていたときのような面白味は、全くない。何人人を変えても、同じ体型を描いているだけだ。勉強にならない」と言うのです。

 これは、聞いたことで、私が現場で、そのデッサンをしたわけではありませんから、確かなことは言えないのですが、(彼女に)そう言われて、思わず、当時、親しくしていた(日本人の)友人の体型を見てみると、確かに三者三様なのです。

 かつて、様々な国から、「安住の地」をこの列島に求めて、人が渡ってきたのでしょう。そして、幾代も幾代も経るうちに、多くの天災や人災を共にやり過ごし、生き残った人がここに、その人々の子孫として存在しているのでしょう。

 グローバル化の先取りのようなものです。ただ、この地には「天災」が多く、「新参者」は、「古参者」の知恵を借りねば生きていけなかったのです。そうやって、文化の一部が継承されていったのでしょう。これは、今でもそうです。程度の差こそあれ、どこに住もうと、「新参者」は、頭を低くして教えを請わねばならぬのが、「道理」です。

 それが、形を変えて「掟」と言われたり、「習わし」と言われるものなのでしょう。それは「排他」主義というよりも、生きんがための生活の知恵とでもいうべきもので、そうして先祖伝来の知恵が受け継がれてきたからこそ、この地でも、絶えることなく、多くの人が、生き残ることができたのでしょう。

 「グローバル社会」を体現しているような、この小さな日本語学校でも、そうです。ルール作りが何よりも大切になってきています。だんだん「勉強を主」にする人の数が増え、また、「日本で学ぶことの良さ」を感じてくれる人も増えてきましたから、いよいよ、次の段階に入ったとでもいえるのですが。

 ここで、一言。この学校で、一級レベルに達した後のカリキュラムについて、言っておきますが、多くの知識(教育内容)は、まず、彼らが、それを「知る」ために教えています。つまり、「見たことがある」、「習ったことがある」という経験を作るために、教えているのです。それをどう自分なりに消化していくかは、本人の問題です。「知性」も関係してきます。教えても、それが役に立たない人も出てきます。それは織り込み済みです。強引に、或る解釈を紹介しても意味はありませんから。つまり、「知識」として供給し、日本で生活するならば、知っておいたほうがいいと告げるだけなのです。

 中国人でも(なんとなれば、何の疑いもなく、彼らは「中国の学校のレベルは高い」と信じ込んでいるのです)、特にいい高校でまじめに勉強して来たという学生でも、「社会科系」の科目では、日本の中学生程度の知識レベルにすぎません。レベルは決して高くないのです。こんな幼稚なレベルで、世界に伍していけるのかしらんと心配になるほどなのです(実際、私も、言われてびっくり。自分に「知識がある」なんて、思っていませんでしたから。日本では「歴史好き」なら、だれでもがもてるほどの知識に過ぎません。また、同じような仲間が集まって、好きな人物や関心のある事などについて、世間話のように話したりすることも、日常茶飯事でしたから)。

 日本では、小学生でも、テレビの教養番組を見り、本を読んだり出来ますから、(好きなことでしたら)大人顔負けの知識をもっています。勿論、まだそれを自分なりに解釈したり、理解したりすることはできませんが。それは大人でも同じです。そういうことは、一段上の専門的な知識が必要になりますから、研究者の仕事です。そういう研究者が、テレビや、新聞・ラジオ・インターネットなどで、発表した見解を、私たちは、聞いたり、見たりするわけなのですが。

 で、話は、「ルール作り」にもどります。中国をも含めて、発展途上国から来た人には、「公」と「私」の区別が、あまりついていませんし、「例外」を認めてやる「心の余裕」もありません。日本人でもそういう人はいますが、圧倒的に割合が違うのです。ただ、「公私」の別は、学校で生活していくうちに、自然に身につけるようにさせていきますが、面倒なのは、この「例外」というやつです。

 「一人」に認めると、直ぐに「我も我も」と例外を認めてもらおうとやって来るのです。しかも、それは当然の権利で、正当性は自分にあるという風に言うのです。その度に「戦い」です。「この人は、今、こういう情況にある。だから、例外を認めてやった。しかし、あなたは、そんな情況にない。だから、認めない」というと、「不公平だ。贔屓だ」と来るのです。

 私にしてみれば、「ああ、この人の国では、教師はこうやって好きな学生だけに特例を認めてやっていたのだな。だから、直ぐにこう言うのだな」と思い、哀れみさえ感じているのですが、彼らにはそれは通じません。で、戦いです。

 それはそれでしようがないことなので、仕事の一部と思って、割り切ってやっているのですが、けれども、問題なのは、助けてやらなければならない学生に、そういうことが原因で、二の足を踏んでしまうかもしれない「自分の心」なのです。特例を認めてやったり、助けてやったりすると、直ぐに、他の学生までが、自分にもそうしてくれと言いに来て、一人一人にする、その応対だけでも、非常に面倒な事になりますから。

 それに、一度みとめてやると、それに味を占めて、何度でも言いに来る人がいるのです。「あの時はあの時、今度は違う」が通用しないのです。いくら社会が豊かになっても、(社会の)人気(じんき)というのは、なかなか成熟しないもののようですね。ある種の「仁義」が、どうも欠けて、いびつな形で、豊かになっていきつつあるような気がします。

 まあ、本人が幼稚でも、「家庭教育」ができるだけの「ご両親」を持っている人は、(こちらが言えば)すぐに気づいて変わってくれるのですが…。もしかしたら、どこの国でも、詰まるところは「家庭教育」なのかもしれません。

日々是好日
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