日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「節分」。「『日本語教育』と『学校教育』、二本立ての『日本語学校』における『日本語教育』」。

2009-02-04 08:22:27 | 日本語の授業
 朝は曇り。さてさて、今日のお天気はどうなりますことやら。

 もっとも、曇り空とはいいながら、カギを出すのに苦労はしませんでした。春ですね、もうすぐ。朝の「天声人語」に桜の「花芽」のことが書いてありました。数日前にも、沖縄の桜のことが載っていました。ゆっくりと「桜前線」は北上してくることでしょう。そして、直に、桜の開花に「一喜一憂」し、風に「心を驚かせること」になるのでしょうか。まあ、これも、もう少し後のこと。その前に「杉花粉の飛来」の時期が待ち受けていることですしね。

 さて、昨日は「節分」でした。説明は、(なぜか)相づちを打ちながら聞き、VDVを見るときは静かに聞き、「豆まき」は大騒ぎで、楽しい一時間を過ごしました。

 中には、午前も参加したのに、午後も「豆まき」をしたい(本当は、「福豆」を食べたかっただけ)ということで、残った学生が、三名。例のおしゃまさん達です。

 「節分」のアニメーションが終わると、みんな喜んで、「鬼の面」をかぶって写真撮影。なぜか、今年は「桃太郎の面」が混ざっていました。しかも、「吉備団子」の袋も、「福豆」の袋の中に、折り重なるようにして入っていました。お菓子業界もやりますね。ただ、「黍団子」の説明に「桃太郎」を入れようにも、入れられませんでした。ごり押しで、説明だけはしたのですが、みんなの目は食べる方へ、食べる方へと向いていましたから、「福豆」が口に入った途端に、忘れてしまったことでしょう。

 というわけで、「豆まき」です。「鬼の面」をつけた学生が外に立ちます。みんなで「鬼さん」をめがけて「鬼は外、福は内」と言いながら、豆をまいていきます(食べることを考えて、少な目に)。例年のことながら、興奮してくるのでしょう、いつの間にか、雪合戦の様相を帯びてきました。豆を当てられて、俄然、わたしも張り切ってしまいました。「やり返す」。やられたら、「やり返す」。やり返さねば女がすたる。投げ返しているうちに、敵の数が増えてきたのに気がつきました。けれど、見ているうちに、敵と見えたものが味方とも投げ始め、何のことはない、敵味方の区別のない、なんじゃもんじゃの総力戦です。本当に、もう、「鬼は外、福は内」の「豆まき」だったのですけれどもねえ。

 そうして、楽しい「豆まき」ならぬ「合戦」が終わると、みんなで仲良く大掃除。豆を拾う者、箒で掃く者、掃除機を引っ張り出して、ガーガーやる者。最後に、「家でもやってみるように」ということで、「節分」行事は終了いたしました。

 しかしながら、彼らのように「DVD」を喜んでみてくれると、私としては本当にうれしい。学校には、特に、このブログを書くようになってから、かなり朝早くから来ているのですが、家にいるときも、新聞の整理や録画で、自分のための時間というのがなかなか作れません。うちにいるときも、一体いつからいつまでが仕事で、いつからいつまでが自分用に使っているのか判らないくらいなのです。

 それなのに、学生が、私の準備したDVDを見るほどには、日本語の能力が上がっていなかったり、見る気がなかったりすると、がっかりしてしまいます。ひどいときには、あるまじきことなのですが、「もう、見せてやんねえ」という気にさえなってしまいます。

 準備するのも、「初級」から「上級」までの授業で使うもの。それに、「課外活動」用のもの。そして、「留学生試験」用と、「大学」や「大学院」用のもの。大きく分けただけでこれだけあります。以前は、公立中学校に勤めていたのですが、そこには、国や地方公共団体からの、支援もありましたし、必要なものは、経費で落とせました。それに、暇な先生は必ずいましたので、その先生が代わりに準備してくれたりもしました。経済的にも保障されていたので、ある程度は、自由がきいたのです。

 ところが、こういう小さな学校では、かなりの時間、授業はしなけれがならない。そうすれば、必ず足りないものが見えてくる。それは、自分で探してきたり、準備しなければならない。そのための時間も、少ない自分の時間から、割かねばならないと、「ないない尽くし」の中でやっていかなければなりません。

 こういうことはあってはならないと思うのですが、「日本語を教えるだけ」なんて、考えて、この世界に来て、適当にやっている人を見ると、「あんたと私らは違う」と言いたくなってしまいます。「『日本語』教育」と「『学校』教育」の二つが、この「日本語学校教育」なのですから。

 中国から来た学生は、まず「大学」に入りたいと言います。財政的な問題と能力の問題を無視して。勉強するためには、必ずある程度の、勉強できる時間が必要なのです。その時間ができなければ、せっかく普通の能力があっても、それを生かすことはできません。

 それに、資質の問題なのですが、どうしても大学に入りたいという人の中に、どうにも本人の資質が勉強に適さないという場合があるのです。その場合は、私たちとしても辛いのですが、「自分の国で、自分の国の言葉で書かれたものでさえ、それほど理解できなかった人」は、やはり外国の大学は無理なのです。日本の場合、かなりお金を積めば、入れる大学もないわけではありませんが、日本人にとっても大変なほどの、かなりのお金が必要になります。

 最近は、中国にも、そういう大学があるようですから、できれば、そちらに入ってもらいたい。本人も、「聞いても判らない」言葉を聞きながら、9時から12時半まで、或いは13時15分から16時45分まで、ずっと座っていなければならないのは辛いでしょうし、中国語で説明されてもわからないと言う人に、無駄だと解っていながら説明しなければならない教師も辛い。神経まですり減ってしまいます。他の中国人の学生は「言ったって判らないのだから、ほっといた方がいいと言います。それは本当だと思います。けれども、目の前にいると、そうはできないのです。

 「日本の義務教育で教える教師」というのは、「下を伸ばせなかったら失格」という思想に貫かれて育てられます。これは短所でもあるのですが、他の国と比較すれば、長所とも言えるでしょう。秀才(天才ではありません)一人を育てるために、100人くらいの同級生を犠牲にしているように見える国さえあるのですから。

 けれども、ここは、こういう学校ですから、近所の人が「自分の甥だが」とか、「自分の子供だが」とか言って連れてきた人を追い返すわけにも行きません。そこはご近所づきあいということです。必ずと言っていいほど、能力の劣る人は入ってきます。けれども、だいたい、「初級」の最後でのテスト、「中級」最後のテストなどで、篩にかけられ、最後まで残れる人は、多分、私がその人に必要とするDVDを貸して、一人で見て勉強するように言っても大丈夫だというレベルには達していることでしょう。

 そうして、やっと、報われるのです。「録画する」というのは、本当に地道な作業です。「使っても、全く意味がない」という人達には使えませんから。ある程度の能力がある人達が来なければ、場所を取るだけのゴミといっても言いすぎではないのです。

 ところで、一言。

 日本では、「いい大学院」に入ったという「大卒」の外国人はたくさんいますが、「いい大学」に入れる外国人は少ないのです。「いい大学」に入るために必要な「留学生試験」というのは、「レベルの高い大学」が、「レベルの高い留学生」を求めて始まったようなもので、これは難しい。ある意味では、「一級テスト」なんて、このテストに比べれば、「日本語」だけのものですから、それほど難しいものではないのです。

 そのためにも、常識を学ばなければなりません。やはりDVDによる知識は必要なのです。

日々是好日
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