日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「外国では、自国でのことなどは関係ない。皆、今のその人を見て判断する…のだけれども」

2015-01-26 09:59:40 | 日本語学校
 昨夜、雨が降ったようです。空気がしっとりとして、まるで春雨が降りでもしたかのよう。

 「ヤナギ(柳)」が芽吹き、「ロウバイ(臘梅)」が花開いても…、少しも違和感がないような感じです。けれども、まだ一荒れも、二荒れもするでしょうね。だって、まだ一月ですもの。

 今日、卒業予定の学生たちは、皆で「朝日新聞社」へ参ります。午前中の見学ですから、うまくいけば、高速で(新聞が)印刷されていく様子も見ることができるでしょう。もっとも、その前に行く、「築地市場」のほうが面白いかもしれません。ただ、早朝に見学するというわけにはいきませんから、ちょっと寂しいかもしれませんが。

 一方、残された学生たちは、「お勉強」です。

 この「卒業予定者のみ」という予定表に書かれている漢字が、まだ読めないこともあって、先日の「お台場の未来館」見学の時も、それを見た一年生がニコニコしながら、二三日前に、「駅ですね」なんぞと言うものですから、言われたこちらが、ハッとなって、大慌てで、「君たちではない」ということを確認しに回らねばなりませんでした。

 この「張り紙」(予定表)も、(わからないだろうから)見ていないかというと、案外見ているらしく、思わぬレベルの人が、「ああだった」と言ったりするのです。それに、兄弟で来ている学生もいるものですから、兄が卒業生で、いろいろ行くとなると、妹の方でも、自分も行けるものと思い込んでしまう。

 兄の方では、入学金や次の学費のためにお金を貯めなければなりませんし、入試の準備もせねばならない。それで忙しいというのに、妹の方では、「見学」を「遊びに連れて行ってくれる」と考えて、待ち望み、兄を急かすと言うことにもなってしまう。

 この「課外活動」のことなのですが、これは「遊び」ではないのです(勉強半分、気分転換半分と言ってもいいかもしれませんが))。まあ、「見学」なのです。見聞を広めるためなのです。もちろん、日本情緒豊かなところへ行けば(東京ですから、江戸情緒ということになるのでしょう)、楽しいし、思わず写真もパチパチとたくさん撮りたくなってしまう。着物を着て、髪を結って歩いている人が通れば、「一緒に写真を撮ってもいいですか」と言いたくなってしまう。

 それに、「未来館」のように、進んだ科学(ロボットや未来のコンピューター技術)などを見せれば、機械が好きな学生は見入ってしまうということになる(まえに「メディア祭」に連れて行ったこともありました。このときは、中国人学生が主でしたから、日本語のレベルもかなり高かったので、行けたのですが)。

 「日本のロボットを国で見た。日本でロボットを勉強したい」と、そう思い、来日した学生がいても、基本的な学力(この場合は、物理や数学)がないと、大学の試験には合格できません。当たり前ですが。

 日本語はかなりがんばった…。けれども、いざ、専門分野を学びたいと、大学を目指そうにも、取っ掛かりがないのです。彼らの知識を日本語に置き換えるだけであれば、どうにかなるであろうけれども、母語で受けた教育の中に、そういう基礎知識、あるいは学力が入っていなければ、いかんともしがたいのです。これがなかなかわからない(手先が器用で、国で機械の修理もできた。だから大丈夫となってしまう)。

 「私は国の高校でよい成績であった」と言われても、学んでいる分野が異なっていたり、端っから、相手にならないようなレベルであったりするのです。

 もちろん、すぐに「これは無理だな」と、次を考えることができる人もいます。けれども、日本語学校に来る人は、国で大学に合格できなかったという人が多いのです(中には、国で大学を出たという人や修士まで行ったという人もいますが)。いくら外国人は別枠の試験であるといっても、文系ならいざ知らず、理系はかなり厳しいのです。

 以前、中国人が多かったときは、判で押したように皆、「がんばって、東京大学に行きます」と言っていました。最初はこちらも「へっ?」という感じだったのですが、すぐに慣れ、「そうですか。がんばってね」と答えていました。すぐに、言わなくなるので、ほっといてもいいことに気がついたのです。

 「どうして私は大学には入れない?」と言われても、「漢字が読めないし、書けないし、だから本が読めないでしょう」と答えるしかないのです。そうすると、「あの人は読めないのに、先生は大学を薦めた。私だって同じだ」となる。「同じではない。彼は国でその仕事をしてきた。そして必要があって、日本でもっと進んだやり方を学ぶために来た。この経験というのは大きい」。

 面白いことに、差別化が全くない(としか思われないような)国から来ると、人の能力や才能の違いがわからないのです。みんな同じと思っているとしか、こちらには思われないのです。彼我には大きな差があると、私たちには見えますのに。一人がうまくいくと、あの人がうまくいくなら、自分だってうまくいくはずだと、皆が皆、そう思い、しかも思うだけではなく、主張しはじめるのです

 だから、こういう人たちには、カンニングができないような状態で、試験を受けさせ違いをわからせるか、面接で質問し、彼らにはその種の知識がないことをわからせるかするしかないのですが、それでも、(頭がいいはずの)私は、大丈夫と言い張る手合いもいて、大変です。

 もちろん、試験を受けるのは自由です。が、そのための準備などはやってやらなければならないのです。それで、これだけは覚えるようにと言って、渡しても、努力ができないのです。やりません。アルバイトで忙しいと言ったりします。思わずこちらが「本当にやりたいの?」と言うと、「やる、やる」と言いますが、結局、何が何だかわからないのでやりようがないのでしょう、できませんから、しません。何もしなくても合格できると思っているのだと不思議になるのですが、彼らの国ではそれでも通用するのかもしれません。

 小さな村の秀才で、きっといつも頭がいいと言われて育ってきたのでしょうね(わかりませんけれども)。早く、自分が、普通のレベルであるということに気づかぬと大変なことになると思うのですが(日本人なんて馬鹿なもので、ついつい、相手を傷つけぬようにと「皆、だれにでも才能はある。それぞれ異なった才能を持っているから」と、そんなふうに言ってしまうのです。すると、彼らは自分の都合のいい方に解釈して、私はやっぱりすごいとなってしまうのです)。

 他の人が理解できるのに、自分一人が理解できないと言うことがわからない。「そんなこと、あり得ない。(他の人がわからないなら理解できるのだが、自分だけがわからないなんて…)」で、そこで思考を停止してしまうのです。だって、あり得ないことが起こっているのですから、だから、「考える必要なんてない」で、切り捨ててしまうのです。

 わからせようと努力すればするほど、「嫌なやつだ。この人は私を嫌っている」となるのでしょう。そうなると、たとえ日本人同士であっても、うまくはいきません。まして言葉の足りない外国人なのですから、アルバイトにせよ、日常生活にせよ、それは大変なことになります。で、結局、何年いようと、自分たちの国の人たちの輪から出られないのです。知識も、何年日本にいようと、同国人が語る日本を受け売りするしかないのです。

 一事が万事ということなのでしょう。とはいえ、日本にいるからには、日本語の能力ですべては決まってしまうのです。いくらぺらぺら話せているように思われても、「N5」か「N4」くらいの文法で終わっていると、よほど好きなことが見つからない限り、そのままなのでしょうね。残念なのですが。

日々是好日
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