今日は、強い向かい風の中を走らせてきました。目に入る背高い草が、大きく身体を揺らしています。虫達の声も「ジー、ジー」と抑えたトーンで迫ってきます。それなのに、なぜか、自転車に乗っている私の廻りを離れない蝶がいました。秋の蝶というと、随分侘びしげですね。お盆の頃の黒い揚羽は、死者の魂だから、触るなと言うことを聞きましたが、秋の蝶はどうなのでしょう。
路上では、雀さんが整列を作ってご出勤です。小さいのが頭を下げ何かを啄みながら、チョンチョンと同じ速度で跳ねています。
この「雀さん」とか、「猫さん」・「お犬さん」とかいう言い方は、どうも外国の方には馴染めないようで、「あ、烏の勘三郎さんだ」と窓から外を見て言う度に、「日本では、烏にも名前があるのですか」などと言われてしまいます。
この学校では、中国人を除けば、南の国から来た人が大半を占めています。宗教も仏教・キリスト教・ヒンズー教・イスラム教と(その中の流派とかはよく解りませんが)四つ。彼らの目には、ヒトとその他の動物が一体になって交流しているような(野生動物もです)、こういう日本人の習慣は、奇妙なものに映るようです。
輪廻思想とか、愛情表現とかは別にしても、日本人は動物とすぐに心を通わせたがるものらしく、しかも、そこに上下関係をつけるのを躊躇っているらしく、それが、ますますこういう「(言語)表現」の理解を難しくしているのでしょう。
そういえば、主語に関してなのですが、昨日、『初級』の授業の時に、こんな事がありました。「『あしたは 試合です。』と言われたら、さて、なんと答えるでしょう」という問題です。普通は、理解していなくとも(三択ですから)、「多分これであろう」という程度で、選んでしまうのですが、インド人の学生が「『ああ、そうですか』です。でも、ここには答えがありません」と言って、譲らないのです。
答えは「がんばってください」だったのですが、彼曰く「試合で何をしますか。見に行きますか。試合をしますか。解りません。誰が試合に行きますか。書いていません。わかりません」。こう言い張ってきかないのです。挙げ句は「先生、日本語にはロジックがありません」。私がまた何か言うと、「わかります。わかります。でも、ロジックがありませんから、難しいです」と胸を押さえてため息。
他の学生は、それをおもしろがったり、なるほどと思ったりと様々でしたが、こんな日本語の「言語感覚」を掴むのは難しいでしょうね。「僕は うなぎ」と注文するのと同じです。こんな事を言われたら、この学生は、きっと「えっ。この人は人間ではなく、ウナギだったのか」と目を白黒させてしまうに違いありません。
それから、一つ訂正です。
昨日このクラスでは、クルミが捌けて、クッキーはあまり捌けた様子がなかったと書きましたが、そうではありませんでした。一昨日、しっかり、大きいのを七つも食べた奴がいました。しかも、選りながら。
昨日、まだ、このクラスの学生達に一巡できるほど残っていたので、授業の終わりにまた持って行ったのですが、「昨日、七つ食べた人は、今日は最後」と言うと、その人は完全にすねていました。「いらない。いらない」。「一つならいい」と言っても、そっぽを向いてしまうのです。
「ようし、いらないんだな」と念を押して、こっちも知らん顔をしていたのですが、一人「どれが一番おいしいの」と尋ねた学生がいたんですよね。すると、俄然張り切って、「これ、これ。ああ、それはだめ」とか、いつの間にか中国人以上に、中国のお菓子に詳しくなっていて、蘊蓄を傾け始めたのです。「ああ、ちょっと機嫌が直ったようだな」と思いながら、ふと見ると、説明しながら、次々に口の中に放り込んでいるではありませんか。「うん、これはいい。ああ、これはだめね」とか言いながら。
私の見るところでは、昨日も三つか四つは食べていましたね。
日々是好日
路上では、雀さんが整列を作ってご出勤です。小さいのが頭を下げ何かを啄みながら、チョンチョンと同じ速度で跳ねています。
この「雀さん」とか、「猫さん」・「お犬さん」とかいう言い方は、どうも外国の方には馴染めないようで、「あ、烏の勘三郎さんだ」と窓から外を見て言う度に、「日本では、烏にも名前があるのですか」などと言われてしまいます。
この学校では、中国人を除けば、南の国から来た人が大半を占めています。宗教も仏教・キリスト教・ヒンズー教・イスラム教と(その中の流派とかはよく解りませんが)四つ。彼らの目には、ヒトとその他の動物が一体になって交流しているような(野生動物もです)、こういう日本人の習慣は、奇妙なものに映るようです。
輪廻思想とか、愛情表現とかは別にしても、日本人は動物とすぐに心を通わせたがるものらしく、しかも、そこに上下関係をつけるのを躊躇っているらしく、それが、ますますこういう「(言語)表現」の理解を難しくしているのでしょう。
そういえば、主語に関してなのですが、昨日、『初級』の授業の時に、こんな事がありました。「『あしたは 試合です。』と言われたら、さて、なんと答えるでしょう」という問題です。普通は、理解していなくとも(三択ですから)、「多分これであろう」という程度で、選んでしまうのですが、インド人の学生が「『ああ、そうですか』です。でも、ここには答えがありません」と言って、譲らないのです。
答えは「がんばってください」だったのですが、彼曰く「試合で何をしますか。見に行きますか。試合をしますか。解りません。誰が試合に行きますか。書いていません。わかりません」。こう言い張ってきかないのです。挙げ句は「先生、日本語にはロジックがありません」。私がまた何か言うと、「わかります。わかります。でも、ロジックがありませんから、難しいです」と胸を押さえてため息。
他の学生は、それをおもしろがったり、なるほどと思ったりと様々でしたが、こんな日本語の「言語感覚」を掴むのは難しいでしょうね。「僕は うなぎ」と注文するのと同じです。こんな事を言われたら、この学生は、きっと「えっ。この人は人間ではなく、ウナギだったのか」と目を白黒させてしまうに違いありません。
それから、一つ訂正です。
昨日このクラスでは、クルミが捌けて、クッキーはあまり捌けた様子がなかったと書きましたが、そうではありませんでした。一昨日、しっかり、大きいのを七つも食べた奴がいました。しかも、選りながら。
昨日、まだ、このクラスの学生達に一巡できるほど残っていたので、授業の終わりにまた持って行ったのですが、「昨日、七つ食べた人は、今日は最後」と言うと、その人は完全にすねていました。「いらない。いらない」。「一つならいい」と言っても、そっぽを向いてしまうのです。
「ようし、いらないんだな」と念を押して、こっちも知らん顔をしていたのですが、一人「どれが一番おいしいの」と尋ねた学生がいたんですよね。すると、俄然張り切って、「これ、これ。ああ、それはだめ」とか、いつの間にか中国人以上に、中国のお菓子に詳しくなっていて、蘊蓄を傾け始めたのです。「ああ、ちょっと機嫌が直ったようだな」と思いながら、ふと見ると、説明しながら、次々に口の中に放り込んでいるではありませんか。「うん、これはいい。ああ、これはだめね」とか言いながら。
私の見るところでは、昨日も三つか四つは食べていましたね。
日々是好日