ぐうたら里山記

兵庫の西の端でただのほんと田舎暮らしをしています。ぐうたらです。のん兵衛です。

田舎暮らし断想~都会

2011年03月31日 10時02分10秒 | 田舎暮らし
久しぶりに大阪に行った。
10年ぶり・・・かな?
500MLのペットボトルにエネルギー源(?)を忍ばせて。
ちょうど通勤・通学時間帯。
人が働きに行くときに一人酒を呑むのはちょっとした快感と同じくらいのわびしさがある。
「えっ、あっそう、ふ~ん仕事に行くの?ご苦労さん!」
と思う反面、なんか自分だけがあふれているような気にもなる。
でも酒瓶から呑んでいるわけではない。
ペットボトルで呑んでいるので傍目には水を飲んでいるとしか見えないだろう。
そしてスルメと魚肉ソーセージはこっそり食べた。
それをたまたま見たひとは「なんか怪しいなぁ」と思ったことだろう。
酒飲みにとって隠れ酒ほど楽しいものは無い。

サラリーマンのころは電車に乗ったときはいつも食い入るように景色を見るか、時間惜しげに本を読むかのどちらかだった。
毎日見る同じ景色の中にもどこか違ったものがありそれを見つけるのが楽しかった。
そしてラッシュの中で本もよく読んだ。
今度ももちろん本は持って行ったのけど、たいして読む気にもなれず、ぱらぱらと見ては景色をぼんやり眺めて、時々はエネルギーを補給しながらすごした。
窓から密集した新興住宅やマンションを見るにつけ、どうしてこんなところに住んでいるのだろうな?と不思議に思う。
みんなそれぞれに個性を主張して建てているけど住宅地全体を見るとみんな画一に見える。
そして密集した住宅は見るだけで息苦しくなってくる。
みんな高い金を払って買ったのだろうな。
田舎にきたらもっと安い値段で1000坪の土地と立派な古民家で暮らせるのに・・・とついつい思ってしまう。
大阪に着いたら駅裏はだいぶ変わっていた。
そしてそれ以上に自分が変わっているのに気づいた。
みんなの歩くスピードにはなかなかついていけない。
時々立ち止まって新しいビルを見上げたり、急に引き返したりと・・・完全に田舎者になってしまった。
しかしねぇ、どうしてみんなあくせく歩くんだろうねぇ。
時間に追いかけられているみたいに。
時間に追われる生活よりも時間と一緒に暮らす生活のほうがずっと楽しいと思うのだけど・・・

まだ朝食を食べていなかったので昔よく食べてた立ち食い蕎麦屋に行った。
そして蕎麦を食べたら・・・あれぇ~、こんなにまずかったかなぁ?
もっともあのころだってただ腹に流し込むだけで、別に美味い思って食べてたわけじゃなかったな。
あのころは食べるのにも時間に追われていたので、味なんかどうでもよかったのだ。

用が終って、夕方難波で食事をした。吉野家で!
(我ながらじつにみみっちい!!)
先日近くの吉野家で牛丼・並を食べたらなんか昔と味が変わっているようで、大阪の吉野家で食べて確かめようと思ったのだ。
それで牛丼・並を食べた。
近くの吉野家よりは少し美味く感じたけど、それでもやっぱりちがう。
汁が少ないからかな?
難波は相変わらずの街で安心はしたけど昔に比べるとやっぱり居心地の悪さを感じた。
そして自分が完全によそ者だと思った。
旧大阪球場の跡に、あれは何じゃ!と叫びたくなるようなすごいビルができていた。
階段状の屋根は緑で覆われていた。
昔だったらすぐに行ってあちこち見物したのに、どうもそんな気分にもなれずそのまま見過ごした。
屋上を緑化してどんなに自然を再現しようとしてもそれは所詮まがい物の自然。
それを見てもどうも楽しむ気にはなれない。

それからまたまた昔よく行ってた飲み屋に行った。
そこは「ソースの二度づけはあかんで!」という類の店。
瓶ビールをのみ、定番の串かつなどを食べたけど、今ではやっぱりここでも違和感と疎外感を感じる。
こんな生活のどこが面白かったのだろうな・・・
もちろん店員はもう誰も知った人はいなかった。

こうして10年ぶりの大阪の1日が終った。
たち食い蕎麦、吉野家、串かつ屋・・・という我ながら実にせこくわびしい1日が。
そして他にどこにも寄ることも無く帰ってきた。
せっかく大阪に行ったのだからもうちょっとなんか楽しんだらよかったのになぁ、と思いながら・・・
帰りの電車も通勤時間帯で今度は座れなかった。
そしてまだ少し残っていたペットボトルのエネルギー源でエネルギーを補給しつつ帰ってきた。
疲れた一日だった。
どうやらもう都会では暮らしていけない人間になってしまったようだ。
コメント
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