イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「とうがらしの世界」読了

2020年11月15日 | 2020読書
松島憲一 「とうがらしの世界」読了

1冊まるごとトウガラシの本だ。著者は唐辛子を専門に研究している研究者だそうだ。

構成は唐辛子の生態とトウガラシの食文化となっている。(種としてのとうがらしは漢字で、食材としてのとうがらしはカタカナで分けられている)

まず、生態について、
世界で栽培されている唐辛子は大きく五つの品種に分かれている。
以下の5種類だ。
アニューム種・・世界中で栽培されていて、日本のトウガラシもこの種類 タカノツメ、ししとう、ピーマンもこの種類
フルテッセン種・・タバスコ、トムヤムクンに使うプリック・キーヌーが代表で中米と東南アジアでよく栽培されている。
キネンセ種・・ハバネロ、ブートジョロキアなど、超激辛の品種。ハバネロは2006年までギネスブックで世界一辛いトウガラシであったが、SBカプマックス(SB食品が開発したそうだ。)にとってかわられ、それも3ヶ月でブートジョロキアに奪われた。その後も、トリニダード・スコーピオン・ブッチ・T カロライナ・リーパー(カロライナの死神)などという激辛唐辛子この品種のなかで生まれているそうだ。
バッカートゥム種・・ほぼ中南米域でしか栽培されていないのであまりなじみがない。
プッペセンス種・・アンデスの高地のみで栽培されている。

人間がトウガラシを食べるようになったのは約6000年前と言われている。原産地域は中南米で、それがヨーロッパ、アジアにもたらされたのはコロンブスが新大陸を発見してからだ。タバコとともにもたらされた。それが東に向かって伝搬してゆくのだが、日本には、一説によると1542年には入っていた可能性がある。遅くとも1680年には日本に入っていた。ポルトガルから、もしくは朝鮮半島から伝来したと考えられる。
その後100年ほどで一般的な食材となった。「和漢三才図絵」には約80種類掲載されているほど品種改良もされた。

注目の辛味成分についてであるが、カプサシノイドと言われる20種類ある成分が辛味の素である。その中の、カプサイシン、ジヒロカプサイシン、ノルジヒロカプサイシンが主なもので他の成分は検査機器では検出できないほど微量ということだ。
ダイエット効果もあるそうで、脂肪の蓄積を抑え、抑える前に消費させる能力があるらしいが食欲も増進してしまうのでそれほどの効果は期待できない。

ちなみに、ピーマンとパプリカはカプサイシンを作れない。それはカプサシノイドの化学合成過程にある。果実の中で別々に合成されたフェノール類とベンゼン環が結合してカプサシノイドができるのだが、ピーマンやパプリカはそれを結合することができない。
シシトウでたまに辛いものに当たるのは、偶然それが結合されてしまった結果ということだ。そのシシトウであるが、シシトウは種が少ない実はとても辛いらしい。ストレスと単為結果によって種ができずに実がなってしまうとカプサイシンができてしまう。種が少ないとリグニンという種の表皮を硬くする成分を作り出すフェノール類の行き場がなくなり辛くなるらしい。
シシトウは実の先端の形が丸くて獅子の頭の形に似ているというので、獅子頭という文字から名前がついた。今のシシトウは和歌山が発祥で、京都の田中とうがらしという種が病気で廃れる前に和歌山県に導入されていて、そこから全国に広まった。和歌山県は今でも3位の生産量をほこっている。

トウガラシの辛味は、隔壁、胎座というところで合成される。種が辛いというのはウソだそうだ。実の熟し具合ではいつ頃が一番辛いかというと、赤くなるとカプサイシンは減少しはじめるので赤くなる寸前が一番辛い。でも、樹皮もけっこう辛いように思うが・・。
スコビルという単位についてはまったく説明されていないが、調べてみると、『トウガラシのエキスの溶解物を複数(通常は5人)の被験者が辛味を感じなくなるまで砂糖水に溶かし、その倍率をスコビル値としていた。』いまでは測定器があるそうだが、わりといい加減っぽいから学問の世界では使われないのかもしれない。この本では、1グラム当たりのカプサシノイドの含有量で辛さの度合いを表していた。
それで比べると、ハバネロは鷹の爪の16倍、ブートジョロキアは30倍の辛さになる。

環境でも辛さが変わり、リン酸が多くなると辛味が弱くなるそうだ。ある年、まだ叔父さんの畑で植え始めてもらったころ、叔母さんが枯らせたら一大事だと丹精込めすぎて全然辛くないトウガラシができたことがあった。この説は絶対に正しいと実感している。

トウガラシのほかにも辛いものがある。
コショウはピペリン、山椒はサンショオーール、ショウガはショウガオールとジンゲロールなどいろいろあるがカプサイシンには及ばない。
ワサビはかなり辛い。これはアリルイソチオシアネートという物質で、シニグリンという物質が細胞が壊れるとミシロジナーゼという酵素が働いてアリルイソチオシアネートになる。揮発性が高いので鼻にツンとくる。大根も同じ成分が入っている。

ここまでが植生に関する話題を拾ってみたものだ。

食文化については国や地方ごとに書かれている。辛い食べ物は好きだが、好んで食べに行こうともしないのでここに書かれていることもあまりピンとこない。それにトウガラシって国ごとに固有の品種があり、それを家で作って真似てみようということもできないので、ふ~ん、そうなんだという感想だ。

トウガラシの発祥の地の中南米域ではトウガラシは旨味の食材としても食べられていた。また、チョコレートに入れて飲んでいたともいうが、いったいどんな味だったのだろうか・・。
ヨーロッパにもたらされていろいろな国でいろいろな料理が作られているようだが、ペペロンチーノくらいしかピンとこない。アフリカにいたってはよけいにわからない
南アジアではブータンがすごい。辛味の強いトウガラシを野菜として食べているらしい。ここへは一度行ってみたいと思った。
タイ、ここもすごい。トムヤムクンの国だが、ここにはプリック・キーヌーというトムヤムクンに欠かせないトウガラシは相当辛いらしい。
中国の激辛料理といえば四川料理だが、その特徴は、山椒(花椒)と合わせた香りと激辛のコンビネーションだそうだ。日本には中華料理屋なんていくらでもあるからこれくらいはどこかへ食べに行かないとだめだな。
韓国のトウガラシは意外や日本のトウガラシよりも辛くないらしい。無茶苦茶辛いとキムチにあれほど入れられないそうだ。そうはいっても、毎年買ってくる苗は「韓国激辛トウガラシ」という名前がついている。事実相当辛い。よく考えたら、ほかの激辛トウガラシを食べたことがないから比較をしたことがない。ということは、僕は意外と辛いものには弱いのかもしれない。これはショックな現実を突きつけられた。確かに、渡船屋の奥さんに分けてあげた時の感想が、「マイルドな辛さで美味しかった。」だった。彼女の感想は意外と正しかったのかもしれない。そして僕はほんとうのトウガラシの世界を知らないのかもしれない・・。



しかし、韓国はやっぱりというかなんというか、コロンブスの大陸発見以前から唐辛子があったという研究発表が2009年にされたそうだ。
豊臣秀吉が朝鮮に出兵したときに初めて韓国人はトウガラシを知ったという説もあるくらいだからキムチの歴史もそれほど古くはないと思うのだが・・。

最後に日本のトウガラシ事情だが、大半は辛くない品種だとはいえ、現在40種類もある。ただ、味のメインがトウガラシという料理には出会えない。「激辛」という言葉が流行語大賞1986年だそうだ。それ以来テレビでもいろんな激辛料理が紹介されているが風味付けのひとつという位置付けだ。まあ、日本にはワサビという強敵があるし、様々な調味料もあるからなかなか一般的にはなりにくいのかもしれない。
日本のトウガラシといえば鷹の爪だが、今の鷹の爪は原種ではないそうだ。今は房成りだが原種は節成りの形をしていたという。たしかに叔父さんの家の鷹の爪は房成りで実は上を向いている。熟してくると赤と緑のコントラストがきれいだ。その点、激辛韓国トウガラシは少し黒みがかっているので邪悪さを感じるような辛さの雰囲気はあるけれども美しさはない。だから無茶苦茶辛いのだと思っていたのだが・・。

最後に、どうしてトウガラシは実に辛味を蓄えるようになったかということである。カプサイシンの成分であるリグニンは種皮を硬くするのにも使われる。そのせいで唐辛子の種の種皮は薄いそうだ。そうまでして辛くなったのは鳥に食べてもらってより広く拡散しようという戦略を取ったからだ。哺乳類は種をすりつぶして食べてしまうので糞となって出たころには発芽できる確率が低い。鳥は種を丸のみにするので種皮が薄くても大丈夫で、カプサイシンを嫌わないという違いがある。鳥は飛ぶことができるからより遠くへ種を運んでくれる。
カプサイシンのおかげで哺乳類から守られていたはずだが、人間はその辛さの魅力に取りつかれ、世界中に唐辛子の種を拡散させた。忌避するはずの哺乳類に助けられて唐辛子は世界中に生息域を広げることができたというのである。
これがこの本のオチである。

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加太沖釣行

2020年11月13日 | 2020釣り
場所:加太沖
条件:中潮 4:35満潮 10:36干潮
潮流:5:25 上り2.4ノット最強 8:55転流 11:46 下り2.4ノット最強
釣果:カスゴ3匹 チャリコ2匹 カワハギ1匹 サゴシ1匹

ここ数日ぐっと寒くなったと思ったが、今朝の気温は体感的にはかなり暖かい。実際、11℃あったそうだ。昨日は6.8℃ということなのでやはりかなり暖かい。
そのせいもあって、今朝はすこぶる穏やかな天気だ。潮の回りはあまりよくないが、絶好の釣り日和としておこう。



少し早く港を出てまずは保険のサゴシを狙ってみた。
紀ノ川河口から仕掛けを流すとすぐにアタリがあった。これでおかずは確保できた。アタリがあった場所に戻って仕掛けを流しなおすとまだ釣れる感じはするのだが、ここでもたもたしていると潮が止まってしまう。うしろを振り返らずに加太へ針路をとる。「三体」に登場する、それしか選択肢がなく外宇宙へ無限の旅に向かう戦艦のようだ・・。

すでに潮は緩み始めているのでできるだけナカトに近い場所を目指す。先週はハマチが爆釣だということだったが、今日はまったく船影が見えない。なんなくナカトシタへ入れたのはいいのだが、まったくアタリがない。少し地の島よりに移動してみると魚探には反応があるがアタリがない。仕掛けの幹糸にはびっちりとスラッジが付着しておりあまりい感じがしない。これが原因だろうか。
ほかの船は釣れているのかどうかわからないが、穏やかだが低く垂れこめた雲間に小雨が降る中、海面に浮かんでいる船の姿はかんだか活気がなさそうに見える。



8時過ぎまでやってみるが潮が止まるまでに今日もカワハギをやりたい。そのまま帝国軍軍港前に移動して仕掛けを下す。



今日は少し深いところを狙ってみたが、これがよかったのかどうかはわからないがすぐにアタリがあった。この引きは間違いなくカワハギだが、ハリスを食いちぎられてしまった。
続いてまたアタリ。今度はきちんと取れた。それほどの大型ではないが十分刺身にできる。
その後もアタリは続くが鉤に乗らない。あとから考えると、もっと食い込むのを待たねばならなかったのかもしれない。このタイミングが難しいのだ。
300円のエサはあっという間になくなり、時間が余ってしまった。当初の予定ではカワハギ釣りをして納竿しようと思っていたのにこの時点で午前9時だ。
潮はすでに下り始めているのでせっかくだから非武装ポイントを目指して転進した。



このポイントにはけっこうな数の船が集まっている。魚探にも反応がある。
まず上がってきたのは小さいカスゴだ。お正月のにらみ鯛サイズなので取っておく。
その後に小鯵。これは家に帰って捌いてみると小鯵らしからぬ脂の入りようであった。
なんだか底の方にはこんな魚が集まっているらしく、その後は小鯖が釣れた。
そして今日もメジロらしき大物が掛かった。今日のさかなは一気に走らずにじわじわ行く。これなら取れるのではないかとじっくり引き寄せてきて仕掛けまで手が掛かったときにグッと潜られ今日も枝素を切られてしまった。
高仕掛けでクッションゴムを使うかどうかという議論があるが、ぼくは磯釣りでもクッションゴムは嫌いだったので船の釣りにも使わない。しかし、今日のように仕掛けに手をかけてから切られてしまうとクッションゴムを使うかどうかの以前の問題だ。
上手な人はこんな時もうまく魚をいなして取り込むことができるのだろうか。
一度は取り込んでみたいものだ。
その後、もう少しましなサイズのカスゴを釣って午前11時。潮が緩み始める時刻を待てばまたアタリが出てきそうな予感がしたがいつものとおり、昼ご飯を家で食べるという主義のとおりそのまま終了とした。


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「怖くて眠れなくなる化学」読了

2020年11月12日 | 2020読書
左巻健男 「怖くて眠れなくなる化学」読了

新刊図書のなかにタイトルが面白そうなものがあったので借りてみた。様々なところで利用される化学反応であるが、取り扱いを誤るとこんなことになってしまうということを、産業、家庭の中で、また、著者は教師をしていたというので理科の実験中の事故なんかも交えて書かれている。
そんなに怖くて眠れなくなるほどでもないが、最初の章に出てくる、塩化ナトリウムについての話題だが、よく考えたら塩素もナトリウムも単体では危険極まる物質だ。それが化合していると人間にはなくてはならなくなるものになるというのがまことに不思議だ。
塩素は旧ドイツ軍も使った元祖毒ガスだ。僕は2か月に2回くらいの割合で風呂の壁のカビ取りをするが、その時も塩素系のカビ取り剤を使うので喉と目がヒリヒリする。だから、消毒だといって昼間からアルコールを摂取してしまうことになるのだ。塩素はそれほど危険だ。ナトリウムにいたってはもっと危険で、水に落とすと分量によっては大爆発を起こす。
1995年、高速増殖炉「もんじゅ」がナトリウム漏れ事故というのを起こしたが、これも金属ナトリウムが原因だ。この事故についても詳しく書かれているが、500度の液体ナトリウムを冷却材として使用しいてたそうだ。熱交換系の配管というのはよく漏れる。僕も船の管理でこれは実感している。最終的な熱交換は水なのだが、ナトリウムは水と激しく反応するから厄介らしい。
ちなみに、「高速増殖炉」の意味であるが、何かが高速で増殖するのではなく、高エネルギーで速度の速い中性子を使ってウランの燃料カス(劣化ウラン)からプルトニウムを増殖させるという意味だそうだ。その中性子の速度を落とさないために普通の原子炉では水を使うところにナトリウムを使っているらしい。

自然の状態ではすべての原子は安定した化合物として存在しているが、人間は電気や他の化合物を使ってその安定を崩すことでエネルギーや有用(善であろうと悪であろう)な物質に変換して利用してきた。そこに無理が生じてしまうことがある。だからよくよく注意して取り扱うべきだというのが著者の考えのように思えた。
例えば農薬や殺虫剤。これがないと農作物を安定的に作れないし、危険な伝染病を防ぐことができない。しかし、使い方を慎重におこなわないと耐性をもった害虫がよけいに作物を食い荒らし、そこで使われるもっと強化された農薬や殺虫剤で人間の健康を脅かす。

硝酸アンモニウムについては直近の事故を取り上げている。8月のおこったレバノンの爆発事故だ。この物質は、爆薬の原料にもなるが肥料にもなるらしい。なんとも両極端な物質だが、密閉した状態で火が点くと高温、高圧という状態になり大爆発を起こす。これも取り扱いを誤った事例だろう。いつでもどこでも起こりうるという危険を警告している。

著者はそういうことを理科教育を通して伝えたいと考えてきたようだが、危険やゆとり教育のあおりを食って自分の理想とする教育ができない。そして、教師たちも危険という認識がなく事故を起こしたりもしてしまうということを嘆いている。

一酸化二窒素(笑気ガス)の話題も面白かった。麻酔にも使われるガスだそうだが、吸い込むと顔の筋肉が弛緩して笑ったような表情になるからこんな名前がついているそうだ。同時に気分も昂揚するのでドラッグ代わりにも使われる。糞尿からも出るようなガスだそうだが、『数時間にわたりふんの堆積物のにおいを嗅ぎ続けると、完全におかしくなってしまう。気分が悪くなり、頭痛がしてくることもある。』というような代物らしい。う~ん、ひょっとして僕が毎日会社で嗅がされている彼から発せられるあの臭いは笑気ガスだったりするのだろうか?気分は昂揚しないが、気分が悪くなり、頭痛がしそうになるのは確かだ。
ここ数日、コロナ患者が急増して、こんな安普請の仕切り板で不安な毎日を過ごしているがその前に笑気ガスの中毒になってはしまわないかと不安になる。



日常生活では化学変化といっても僕の身の回りではサンポールで貝の表面を溶かしたり、上で書いた風呂のカビ取りくらいしか経験するものがない。なかなか実感がわかないが様々なところで恩恵を受けながらも危険であるというのはよくわかるのだ。
僕も経験できるものとして重曹とクエン酸を混ぜると温度が下がるという実験が紹介されていた。100均にも売っているものなので僕も洗剤代わりに使っているものが家にある。「混ぜるな危険」というほどのものではないのでぼくも手のひらの上でやってみた。確かにてのひらが冷たくなる。シュワシュワ泡が出て面白い。これは感動ものだ。

化合にはイオン化傾向というものが関係しているが、僕の高校時代は、カリウムからスタートして金で終わるという順番だった。語呂合わせで、「カカナマアアテニスナヒドスギシャッキン」なんて言いながら覚えた(語呂だけ記憶があって、どのカナがどの元素を指すかはほぼ記憶がない・・)ものだが、今はカリウムの前にリチウムを入れて覚えるそうだ。後半は似たような語呂だが、最初は「リッチニカソウカナ・・」と覚えるらしい。
現代はリチウムイオン電池で脚光を浴びている金属だが、多分当時は何の役にも立たない金属だから取り上げられることもなかったのだろう。(カリウムも何の役にたっているのか知らないが・・。確か、人間の体にもカリウムが入っていて欠乏すると厄介というのは聞いたことがある。)これも時代の流れを感じるのだ。


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「広い宇宙に地球人しか見当たらない75の理由」読了

2020年11月11日 | 2020読書
スティーヴン・ウェッブ/著、松浦俊輔/訳 「広い宇宙に地球人しか見当たらない75の理由」読了

これも「三体」の流れで借りた本だ。500ページもある。

「フェルミのパラドックス」という論に対する解を求めようとする話だ。
ウイキペディアで調べてみると、『物理学者エンリコ・フェルミが最初に指摘した、地球外文明の存在の可能性の高さと、そのような文明との接触の証拠が皆無である事実の間にある矛盾のことである。』と書かれている。

「ドレイクの方程式」という、太陽系が属する銀河系のなかには地球のほかにどれくらいの文明が存在しているのかを求める方程式があって、それぞれの変数に数値を確定させて代入するとその文明の数が導き出せるというものだ。

方程式はこうだ。
N=R*×f{p}×n{e}×f{l}×f{i}×f{c}×L
R* は、天の川銀河で1年間に生まれる恒星の平均数、
f{p} は惑星系を有する恒星の割合、
n{e} は1つの恒星の周りの惑星系で生命の存在が可能となる惑星の平均数、
f{l} は上記の惑星で生命が実際に発生する割合、
f{i} はその発生した生命が知的生命体にまで進化する割合、
f{c} はその知的生命体が星間通信を行うほど高度な技術を獲得する割合、
L はそのような高度文明が星間通信を行い続ける期間、
である。
こんな変数をどうやって特定するかはわからないが、ドレイクが1961年に示した値はN=10であったそうだ。

フェルミはこう考えた。少なくとも、銀河系にある惑星文明は地球だけではないはずだ。それなのに、いまだかつて他の星から人工的な電波が送られてきたり、探査機が来たりしたということが確認されていない。ましてやエイリアンがやってきたという痕跡もない。
それはどうしてだろうか・・。というのがフェルミのパラドックスである。
ちなみに、エンリコ・フェルミというひとはものすごく偉大な物理学者であったらしく、1938年にはノーベル物理学賞を受賞し、マンハッタン計画に参画、世界初の原子炉の運転にも成功したというひとだ。そんなひとが、宇宙には地球以外にも文明があるというのだからそれはきっと間違いがないということだろう。
それなのに誰も地球に興味を示していないのはなぜか・・。それがフェルミのパラドックスだ。そしてこの本は、そのパラドックスはなぜ起こっているのかということを考察している。
要は、「宇宙人の存在を、どうして地球人には認識できないのか。」ということを考察している。

その理由を著者は大きく3つの項目に分けて考えている。ひとつは、『実は来ている。』ひとつは、『実在するか、また会ったとしても連絡を受けたこともない。』最後は、『そもそも存在しない。』である。

しかし、これらが長い文章で、しかも翻訳もので専門用語と数式が並んでいるからさっぱりわからない。
なんとなく理解できそうなところを拾ってゆくと、
『実は来ている。』では、都市伝説のような、宇宙人は政治家になって潜入しているなんてことが書いてある。NHKの「LIFE」では「小暮総理」といキャラクターが出てくるが、プロヂューサーはこの本を読んだことがあったのだろうか・。
また、ミステリーサークルや火星の顔面岩なども紹介され、このパートは科学的というよりかなりオカルト的である。唯一、月の高精細の画像探査では宇宙人の観測基地は見つかっていないというのは実証的である。しかし、火星の向こうにある小惑星帯に探査機が紛れ込んでいるという可能性は捨てきれないとなっている。

『実在するか、また会ったとしても連絡を受けたこともない。』では、カルダシェフスケールという文明のステージが紹介されている。
タイプI文明は、惑星文明とも呼ばれ、その惑星で利用可能なすべてのエネルギーを使用および制御できる。地球はここにまでも到達していない。
タイプII文明は、恒星文明とも呼ばれ、恒星系の規模でエネルギーを使用および制御できる
タイプIII文明は、銀河文明とも呼ばれ、銀河全体の規模でエネルギーを制御できる。

恒星間で通信をしようとすれば最低でもタイプII文明レベルが必要である。それだけのエネルギーを制御できないと隣の恒星へも相手が認識できるような電波を飛ばすことができない。ただ、「三体」でも使われていたが、太陽の重力レンズ効果を使って伝播を増幅して発射するという方法は理論的に可能だそうだ。これだと今の地球の文明でも可能だそうだ。でも、「三体」がリアルなら、どこかに隠れている他の星の文明にこっちが滅ぼされてしまうことになるのでちょっと不安だ。
そして、実際に宇宙人が地球にやってこようとするとタイプIIIのレベルの文明が必要だが、恒星間を超えて文明が発達するためには等比級数的に人口が増えてしまい、その圧力で文明自体が崩壊してしまう可能性が高くなるという。
だから、実在したとしても向こうからもアプローチできないという結論が導き出せる。


『そもそも存在しない。』では、地球を例にとって、地球に生命が生まれそれが知識を持ち、宇宙に目を向けるところまで進化することがどれだけ奇跡的であるかということを地質学や生物学の知識を使って書かれている。
まずは、DNAが生まれることが奇跡的で、また、初期の生物と言われる、原核細胞生物が真核細胞生物に進化するということがまた奇跡的であったという。
そしてそんな進化の環境は月という特殊な衛星の存在がある。月は衛星としては地球に比べて非常に大きく、潮汐や地軸の傾きの安定を地球に与えることで生命の進化に貢献した。また、木星や土星などの外惑星も地球に降り注ぐ隕石の数を制御することで何度かの大量絶滅の末に人類を進化の中に残した。地球自身も地殻とマントルを持つことで磁力線を発生させ、宇宙からやってくる放射線から地球を守っている。そんなことがどの恒星系でも起こるのかというとそれは極まれなことではないかと思われ、そもそも存在しないという結論が導き出せる。

結局、真相はわからないわけだが、著者の見解では、やはり、「存在しない。」という考えを持っていると書いている。
確かに、『そもそも存在しない。』のパートで書かれていることを考えたら、道具を作ってさらに二次的にモノを作り出し、宇宙に向かって電波を出し、どこかからやってくる電波を待ち受けるまでになるということは奇跡のなにものでもないような気がする。
生物がいる星は多分どこかに存在するんだろう。しかし、科学技術を持った文明は存在しないような気がする。ましてや銀河規模でエネルギーを操れる文明など。

一番に特異なことは、言葉をしゃべり、道具を使うのは人類だけで、そのほかの動物とはあまりにもかけ離れている。その間がないというのは不自然だ。と、いうことは、やはり人類の存在というのは相当異例のことに違いない。
地球の生命の誕生に際しては一番最初の生命がひとつだけあったに違いないと言われている。宇宙規模でみるとこれから宇宙に広がる最初の生命体が人類であったりするのかもしれない。
地球上の生命を構成する原子は宇宙が生まれたときと同時に発生したものではなく、その後の超新星爆発や白色矮星の崩壊から生まれた原子も使われている。ということは、宇宙ができて何世代かの星々の更新の末でなければ生物は生まれない。この本ではそれは宇宙ができて70億年後くらいからであっただろうという。それから46億年経って今の人類がある。その時間の必要からも人類が宇宙での最初の文明であってもおかしくはないというのが著者の考えだ。だから人類が宇宙における一番最初の生命の位置づけになるのではないかという。

しかし、これから先、人類ははるか宇宙まで勢力を伸ばすことはできるのだろうか。科学と技術の進歩がそうさせる可能性があったとしても、社会的、心理的な面からはどうだろう。
経済面から見てみると、人類を他の恒星系に送り出すだけの余裕があるのだろうか。それをやって経済的なリターンがあれば別だが、そのリターンを得るまでにどれだけの投資をしなければならないのか、貧困にあえぎながらそれに賛同することはできるのだろうか。強力な独裁者が、おれはやるんだ!と言ったところでその技術がそこまで到達するまでその独裁制を保てると思えない。貧困と抑圧が暴発を生む。
また、光の速度を超えられないという縛りがあると、恒星間の移動は数百年、数千年、ひょっとすると万年単位の旅となる。人間がそこで宇宙船の中で社会を築きながら世代を重ねて旅をするとなると、そんなに長い間平和を保てるだろうか。それは歴史が答えを出している。

これは人類を基準に考えているからこんな答えが出るのだといわれるかもしれないが、知覚や知能を持った生物なら、必ず死というものを考えるはずだ。そこから宗教が生まれ、そういう思想を元にして社会が築かれる以上、同じような流れをたどるのは必至だとは思わないだろうか。
宇宙の生命には永遠の命を持っていて、死や宗教に縛られないものがいるに違いないという話もあるのかもしれないが、そういう種族をこっちが生物と認識できるのかどうかというところからはじめなければならない。

フェルミは、不可知論という考え方を持っていたそうだ。不可知論とは、「事物の本質は認識することができない、とし、人が経験しえないことを問題として扱うことを拒否しようとする立場である。」ということだが、多分僕が生きている間にどこかの星からメッセージが届くことはないだろうし、ましてや大船団が攻めてくることもなかろう。
だから何も気にせず空想の中で楽しめばいいと思っている。

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紀ノ川河口釣行

2020年11月09日 | 2020釣り
場所:紀ノ川河口
条件:小潮 6:17干潮
釣果:サゴシ2匹、ハマチ1匹

今日は冬型の気圧配置ということで北風が強いらしい。潮も小さいので無理に加太まで行く必要もなかろうと、紀ノ川河口で復活してきたというタチウオを狙ってみようと考えた。
もう、冬型の気圧配置という言葉が普通に聞かれる季節になってしまった。



時だけがどんどん過ぎていくという感じだ。

午前5時過ぎに港に到着して準備をしているとタチウオ名人も港にやってきた。おお、これはやっぱり釣れているのに違いないと希望を与えられる。



ひと足早く出港してキリンのクレーンの前から仕掛けを流し始めるとすぐにアタリがあった。鉤には乗らなかったが、やっぱり魚はいるようだ。風と波を気にしながら少しずつ沖へ向かう。まだ暗いうちにまたアタリがあった。タチウオが釣れたことは釣れたが、かなり小さい。ベルトサイズ以下だ。幸い口元に鉤がかかっていたのでリリース。
それからはアタリなし。だんだん明るくなってきたのでもう期待はできない。
しかし今年はタチウオに恵まれない。釣れていないことはないようだが、タイミングを逸してばかりだ。沖の方でもかなり釣れているらしく、今日の潮で天気が穏やかなら洲本まで行っちゃおうかというところだが、天気がいまいちでおまけにエサもストックしていないというのではまったく仕方がない。まあ、エサをストックしていないという段階ですでにあかんというところではあるのだが・・。。
チャンスの神様は前髪しかないという。常に準備をしていない釣り師にチャンスが回ってくることはないということか・・。

これからどうしよう・・。そのまま港に帰ってひさしぶりに「わかやま〇しぇ」に行ってみるか、もう少し沖に出てサゴシを狙ってみるか。夜明け前はかなり風が吹いていて雲も低く垂れこめていたが少しずつ西の空は明るく開けてきて風も治まってきたようだ。住金(いまは日本製鉄だが)の護岸に近づけばもっと風をしのぎやすくなるだろうと考えて釣りを続行することに決めた。



流し始めて間もなくアタリが出た。今日もサゴシが釣れた。僕のほかにも船外機の船が1艘と、タチウオ名人も戦線に加わってきた。やっぱり釣れているんだ。
少しやる気も出てきてアタリがあった辺りをうろうろしてみる。
次に来たのは型は大したことがないがハマチだ。そして次はそこそこ型がいいサゴシがきた。クラッチを切って魚を回収するのだが、風の流れを計算に入れていなかったもので仕掛けを梶棒に巻いてしまった。魚を落とすのも残念だが、タコベイトのヘッドを落とすのはもっと残念だ。これ、意外なほど値段が高い。
腕を思い切り伸ばして魚を回収してからボートフックでタコベイトを引っ掛け、巻き付いているところを全部切ってしまってすべてを回収してことなきを得た。
その後はアタリも無くなり、午前7時半を待たずに終了。

叔父さんの家にサゴシを届けると、「あんぽ柿作ったから持っていくか?」と叔父さんから。今年は渋柿がいっぱいできたらしく、ぷよぷよの柔らかそうなあんぽ柿が出来上がっていた。これ、ウイスキーと一緒に食べるとすごく美味しい。お前も作ってみるかと大きな実を6個もらった。



早速昼間から新しいボトルの封を切って賞味してみた。



家に帰って早速仕込み。といっても皮をむいて干すだけだが・・。


さて、うまくできるだろうか。

もうひとつのお楽しみの獅子ゆずの実りはもう少し先だ。
去年は1個しか実っていなかったが、今年は2個実っている。これ、叔父さんは普通のゆずだと思って接ぎ木をしたそうだができたのを見てびっくりして切ってしまおうとしたのを、僕が加工して食べるからといって残してもらっているので実ったゆずは全部ぼくのものになる。ちからさんに美味しいピールの作り方を教えてもらってからはもっぱらそれを作っているが今年はたくさん作れそうだ。



秋は過ぎ去っていくが寒くなればそれはそれで楽しみが待っている。
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水軒沖釣行

2020年11月06日 | 2020釣り
場所:水軒沖
条件:中潮 3:03干潮 9:58満潮
釣果:サゴシ 3匹

数日前から加太ではハマチが爆釣しているそうだ。天気も穏やかで潮もいいが、今日は小船のローテーションの日でもあり、午前中にひとつやっておかなければならないこともあるのでシーズンにはまだ2週間ほど早いがコウイカの調査に出てみた。

今日の和歌山市の最低気温は10.2度。けっこう寒くなってきた。今日からは手袋をして港へ向かう。

そして、コウイカの前にひとつ試してみたいこともある。同じ港に係留しているTさんからの情報では、紀ノ川河口ではサゴシやハマチが釣れているらしいのだ。

夜明け少し前に港に行くと、タチウオ名人が船を出している。
今年のシーズンは終わってしまったと思ったがどうなんだろうか・・ちょっと気になるが今日は仕掛けを持ってきていない。

それにしてもきょうは空が赤い。



青岸の灯台を過ぎる頃に名人と遭遇。ほかにも3艘それらしき船が出ていたのでやっぱりタチウオが復活しているのだろうか。それを横目に僕は釣り公園に向かって針路をとる。
一番南のテトラ帯の前から仕掛けを流す。アタリは間もなく出た。確かにサゴシが釣れた。
Tさんの情報は確かだ。
釣り公園の護岸に添って進むがアタリはない。あまり沖にまで行くとコウイカのポイントから離れてしまうので途中で引き返し、最初のアタリが出たところ付近にくるとまたアタリがあった。今度は少し型もいい。2匹取れれば叔父さんの家に持っていける。朝食代わりのパンをほおばりながら魚が釣れてしまうのだから、魚には申し訳ない。そのまま仕掛けを流しながらコウイカのポイントへ移動中にも1匹。

今日使った仕掛けは、以前グァム島に旅行した時にお土産に買ってきたものを使った。13年の時を経てやっと日の目を見た。ゴムの劣化はあまりしていないようでちゃんと釣れてしまった。これも多分元は日本製(エギなんかもハヤブサのものがたくさん売られていた。)なのだろうから、やはり日本製はできがいいということだろうか。

いつものポイントに入ろうとしたとき、西脇漁港のバッチ網船がやってきたので新々波止の沖からスタート。シラスはいないのか、すぐに針路を変えたのでいつものポイントに移動。今年はいちばん端の防波堤の嵩上げ工事が続いているので影響はどうだろうか・・。(今日は朝が早いので工事の船は来ていなかった。)
そのためかどうかはわからないがアタリはない。一度だけイカではなく魚が乗っただけだ。
それでもいちばんいいはずだと思うポイントを行ったり来たりしていた。

低く雲が垂れ込めた感じとか、体に感じる気温の感じはイカが釣れてもおかしくないのだが、まったくアタリがない。



そしてやっとアタリがあったのは午前8時を過ぎたころだ。もう諦めて帰ろうとしているときだった。そして型も大きい。いつものルアーロッドがひん曲がっている。イカの姿を確認してデッキに置いているゴミ箱の中に放り込もうとしたとき、盛大に墨を吐かれ、一瞬ひるんだか、その拍子にイカは海へ帰っていった・・。



今シーズン最初の獲物を目の前で逃してしまった・・。残念。
イカがいることがわかったので30分延長してみたが、その後は、アタリらしきものがあるけれども鉤には乗らず今日は終了。
前回の白浜といい、今回といい、帰ろうと思うとそれを引き留めるかのように獲物がやってくる。それも思わせぶりに食べられない大きさとか、目の前で逃げていくとか・・。
べつに釣れなかったとしても天に唾を吐こうなんて思っていないのだからすっきり帰らせてほしいものだ。

今日の円卓会議ではタチウオの情報を得ることができた。ひとりだけ船を持っているメンバーがいて、そのひとの話では、ここ数日、またタチウオが釣れていたそうだ。昨日は30本釣ったとのこと。型もそこそこよかったそうだ。タチウオ名人が出ていたのもうなずける。
僕もタチウオの仕掛けも持って行っておけばと悔やんだがそれはあとの祭りだ。


家に帰って、釣具屋さんに磯釣りで使うリールを修理に出してきた。これが今日の午前中にやっておきたかったことだ。
磯釣り用のリールとして紀州釣り用とフカセ釣り用の二つのリールを持っているのだが、両方ともローターのストッパーが利かなくなっていた。いつもではないが、肝心な時に逆転してしまうのだ。春には50センチを超える年なしを釣ったが、よくこんな状態のリールで釣りあげたものだと我ながら感心する。修理に出そうかと思っていたが、ネットで調べてみると原因がわかった。ネットの情報はすごい。こんなことも調べることができる。
原因は、ロックの部分に油が侵入しているからだそうだ。要は、注油のし過ぎということらしい。長持ちさせたいからとまめに注油をしてきたが、それが逆効果になっていたようだ。
パーツクリーナーで油分を落としてやるとたしかにロックの利き具合がよくなったように思う。(実戦での検証は来年だが。)



それに気をよくして、フカセ釣り用のリールも同じだろうと思い、分解してみた。ロック機構は同じような感じだったので、パーツクリーナーで洗浄してみたが、そうはうまくはいかない。そもそも、レバーブレーキでロックと解除をするようになっているのだが、そこがおかしい。よく見ると、ロック用のピンにテンションをかけているトーションばねが折れているようだ。
これなら部品があれば直せると思い、釣具屋に注文しに行ったけれども、リールが古すぎて部品は取り寄せできないと言われてしまった。
ダメもとでメーカーに出すことはできるということだったので、今日、持って行ったというわけだ。
マルニシ釣り具の本店の店長さんはフカセ釣りの名人で、年間70回は釣りに行っているそうだ。店長さん曰く、85%の確率で修理不能で戻って来ますとのこと。15%に祈るしかない。
しかし、このリール、買った当時はシマノのほぼ最高級モデルで、たしか7万円ほどしたと思う。それが小さなバネひとつで使えなくなるとは悲しい。なるべく傷をつけないようにと丁寧に扱ってきたのでそれほど大きな傷もついていない。(傷がつくほどたくさんも釣っていないというのが本当のところのきれいな原因ではあるのだが・・)



今では年に1回行くか行かないかで、おまけにこれからの人生を考えると総回数で5回も行かないのではないかと思うと新しいリールを買うほどでもない。

もし、修理不能で帰ってきたときの対処法としては3つ。
①このリールは放棄して紀州釣り用のリールで代用する。
②泉佐野市に有名な修理専門ショップがあるらしく、そこに持っていく。ここは大概の修理はやってくれるそうだ。(なくなった部品まで製作してくれるかどうかはわからないが。)
③自分でバネを作ってみる。

多分、③の方法を試してみるんだろうなと思う。そして失敗して①に戻るという感じだろうか。帰りにコーナンを覗いてみると、壊れたバネに近いような太さのピアノ線が売られていた。あれでなんとかならないだろうか・・。
フカセ釣りといっても絶対にレバーブレーキのついたリールが必要という訳でもない。エド山口はいつも普通のリールを使っているのでやっぱり①だな。
②の選択肢は、どれだけの費用が必要かということがよくわからない。とにかく、あと5回釣りに行って終わりだからそれほどのコストはかけたくない。
なんとかあと5回しのぎたい・・。
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「SIGNAL シグナル」読了

2020年11月05日 | 2020読書
山田宗樹「SIGNAL シグナル」読了

う~ん、この小説はどのように評価したらいいのだろう。一応、「三体」の流れで借りてみた本だが、SF小説と言っていいのかどうか・・。そもそも、著者は多分SFとは全然縁のないような作家に思う。代表作は、「嫌われ松子の一生」だ。

あらすじはこんな感じだ。
あるとき、とある電波天文台が47分49秒周期で繰り返される明らかに人工的な電波を捉えた。それは、300万光年離れたM33さんかく座銀河からとどいた人工電波であった。
それに興味を持った、主人公である中学生がその話題について語り合いたいと望んだ相手が中高一貫校で学ぶ高等部の先輩である通称「ディラック」と呼ばれている風変わりな高校生であった。母親が天文学者であるという理由だけできっと話が合うだろうと考えたが、打ち解けるまでにはなかなか至らない。打ち解けたかどうかもわからない。
同時に、300万光年離れた世界からのメッセージを直接頭で聞くことができるレセプターという人たちが現れる。頭痛にも似た症状に悩まされながらも、同じようにメッセージを受けたものたちが動画投稿サイトを介して集まるようになる。
そして17年後、「ディラック」先輩は天文学者になり、謎のメッセージの解析に挑んでいる。主人公の後輩は科学ジャーナリストとなり、仕事の合間にメッセージの謎を追っている。

レセプターのグループは受け取ったメッセージから300万年前、地球に向けて大宇宙船団が発進したことを知る。侵略か、移民か、的なのか、友好的な相手なのか、それはわからないが、それをしかるべき人たちに知らせようとする。
そこでレセプターたちと主人公との接点が生まれる。

レセプターたちは、主人公を通して「ディラック」先輩たち、メッセージの解読者たちに自分たちの見た光景を知らせようとする。

そして、「ディラック」先輩のグループはついにメッセージの解読に成功する。その内容とは、300万年前、この星の人たち(M33ETI)は母星のある恒星が高温化することによる暴走温暖化のためいずれは居住できなくなることを知り、地球への移住をおこなうために大宇宙船団を発進させたが、M33さんかく座銀河を出られることなく全滅した。その間際、自分たちの行動とその進んだ科学技術の内容を、おそらくその頃には電波を受信できるようになっているであろう地球人に向けて発信するために宇宙空間に電波発射装置を残した。というものであった。

物語のかなり初めの部分に、「三体」が取り上げられていて、光年単位の距離の彼方からやってくる電波の速度と物理的な物質との移動速度のギャップを利用した設定はあまりにも似すぎているのでこのSF小説にインスパイアされて書かれたのかもしれないが、それがどうもSFとは言えないような・・というのが冒頭にも書いた感想だ。わざわざ「三体」というタイトルを盛り込んだのは逆にこの小説はSFではないと言っているのかもしれないと思えてくる。

しかし、それでは著者はこの小説を通して何を言いたいのか、それもよくわからない。SF小説なら、著者が自分の科学知識を駆使して空想の世界を作り上げるのだから、その空想世界そのものが伝えたいものであるとしていいのだろうが、一般的な小説というのはなんであれ様々なエピソードに何か著者の伝えたいことを盛り込んでいると思っている。

かなりのページを割いて書かれているのは、レセプターたちの人間関係だ。お互いをニックネームだけで呼び合い、最後のシーンまでお互いの素性を知らないまま物語は続き、その中でおお互いの中に友情や愛情が芽生えてくるのだが、そういった今風の人間関係を実験的に描いているのか・・。

唯一、示唆的に書かれているのはこの文章だ。
『人をある行動に駆り立てた〈理由〉は、だれかがその〈理由〉を探そうとする瞬間まで、どこにも存在しない。〈理由〉を探す行為によって〈理由〉が出現するのだ。そして探し当てた〈理由〉も、いかに説得力があるように見えても、それが真にして唯一の〈理由〉あることは滅多にない。』それは、M33ETIがどうして300万光年も離れた地球を選んだのかという疑問を持った主人公に「ディラック」先輩が語る考え方なのだが、それを強調したいというのならそれはいろいろなエピソードの中に埋もれてしまっている感がある。
謎の先輩とのコンタクトと異星文明とのコンタクトを掛け合わせて相手の意思を探るということは無駄なことだと言っているのなら、落ちが単純すぎる。

どれを取っても僕にはすべてが中途半端なものに見えてしまう本であった。
もっと読み込んでいる人の感想も聞きたいものだ。
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加太沖釣行

2020年11月01日 | 2020釣り
場所:加太沖
条件:大潮 6:37満潮
潮流:3:46転流 7:23上り2.8ノット最強 11:03転流
釣果:ハマチ 4匹 真鯛2匹 カワハギ 3匹

大きいほうの船に乗るのも約2週間ぶりだ。釣りに行き続けると疲れるしお金も使うが、行かなければそれはそれで寂しい。
今日はすこぶる良い天気だ。潮も悪くない。今年の10月は満月が2回ある珍しい月であったそうだ。その月の2回目の満月のことをブルームーンと呼ぶそうだが、すでに11月に入っているのでこの月は厳密にはブルームーンではないけれども、今日の好天気を予想するかのようにくっきりと西の空に浮かんでいる。



今日の計画は、午前9時ごろまで高仕掛けをやってみてその後、潮が止まるまで初めて試すカワハギの仕掛けを使ってみようと思っている。
この仕掛け、隣の船のN氏から教えてもらった天秤仕掛けだ。だいぶん前から、加太ではキス針を使った天秤仕掛けでカワハギを釣るということは知っていたが、どんな釣り方をするのかということを知らなかった。なので今まではオーソドックスなアサリのむき身を使った胴突き仕掛けを使っていたが、この天秤仕掛けは大きいカワハギしか釣れないという恐るべき仕掛けらしい。

まずは、四国ポイントでマアジのサビキを試してみた。いつもなら必ず西脇からやってくる漁船がアジを釣っているのだが、今日は日曜日のためか、誰もいない。とりあえず仕掛けを下してみるがすぐにやめてしまった。最初の1匹をいまだに釣っていないせいか、どうも釣れる気がしないし、そこから見えるテッパンポイントにはたくさんの船が出ている。それを見ていると、遅れをとるわけにはいかないと焦ってくる。



同盟軍が相当出ていることをチャンスとみて少し奥まで入ってみたが、まだ潮が速いようで仕掛けがうまく立たない。もう少し流れの緩いところを探して南へ戻る。そこで間もなくアタリが出た。そこそこのハマチだ。取りあえずボウズがなくなったのでホッとする。

その後、今日はバラシの連続となった。魚の活性はいいのか、鉤には乗る。しかし、鉤が曲がってしまったり、途中で鉤外れしたりハリスを切られたりでこの時点で7匹掛けて取ったのは2匹だけという状況だ。
刺さりはいいけどすぐに折れたり曲がったりする鉤の仕掛けを使っていたのだがこれが裏目に出たようだ。せっかく作ったのだからともったいないと思ったのがよくなかった。



道糸をすべて巻き込んで仕掛けにまで手がかかった後にバラしてしまうと喪失感がより大きくなる。

少しずつ潮が緩んできたので一気にナカトまで移動。普通なら帝国軍にすぐにロックオンされてしまう場所だが、今日はここも同盟軍に占拠されてしまっているので帝国軍を気にせずに侵入できる。



しかし、ここでもバラしてばかりだ。到着して最初のひと下しめでアタリがあった。巻き上げている途中で喰いあげるような珍しいアタリだ。そしてかなり大きい。間違いなくメジロクラスだ。この時点で仕掛けを丈夫な鉤のついたものに変えていたので鉤が曲がる心配はないが、強烈な走りで道糸が出ていくばかりだ。すでに水深以上に糸が出て行ってしまっているのでこれ以上出すと根ずれしてしまいそうだ。スプールを指で押さえて竿の曲がりだけで耐えていたが残念ながらハリスを切られてしまった。5号のハリスを使っていたのでまずは切られることがないと思っていたが魚の方が大きかったようだ。鉤を付け替えて仕掛けを落とすとまた同じようなアタり方で一気に道糸が走った。今度も同じような形でハリスが飛んでしまった。

この大きさだと僕の仕掛けでは歯が立たないと思い、これで高仕掛けを終えてカワハギ釣りに切り替えようと移動を開始した。しかし、ナカトから少し下ったところで魚探に大きな反応が出ていた。これは釣れるのではないかと急遽高仕掛けをセットしなおして下してゆくとやはりアタリが出た。これもよく引く。チャリコとハマチが2匹掛かっていた。チャリコとハマチ1匹を取り込んで、3匹目に取り込もうとしたときにまたもや失敗。タモが深く入らずにハマチの頭を叩いてしまってバラしてしまった・・。
なんという失態だ。釣り座から離れて波よけ板の上から救おうと無精したことが原因だから自分を責めなくてはならない。
この時点で午前9時を少し過ぎていたので早くカワハギを釣らなくては潮が止まってしまう。
かねてから目をつけていたポイントへ移動して仕掛けを下す。この仕掛け、2本鉤にそれぞれ青イソメを1匹掛けにしてアタリを待つというのだが、エサ取り名人に青イソメをまるまる付けるとは想像もできなかった。

アタリはすぐに出た。そして、アタリが出たら、ずっと我慢してカワハギの口に鉤が入るころ合いを待って合わせを入れるというのがセオリーなのだそうだが、すぐに鉤掛かりした感じがした。合わせを入れると相当な引きだ。カワハギってこんなに引いたのかしらとやり取りをしていると、上がってきたのはハマチだった。なんとこんなものまで釣れるのだ。
そしてじきにアタリがあって、こんどもものすごく引く。カワハギってこんなに引いたのかしらと思いながらやりとりをしていると、今度は真鯛だ。高仕掛けでも釣れなかったのでラッキーなのだが、僕はこの時点ではカワハギを釣りたいと思っていたのでなんだか複雑な心境だ。
そしてまたアタリ。こんどもえらく引く。もう、カワハギとは思わない。これもきっと真鯛だ。それも大きい。50センチは優に超えている。やっぱり複雑な心境だ。



それまでにも小さなアタリがあって、エサだけ取られるようなことがあったので、おそらくはカワハギもいるのだろうと思い粘っていると、こんどはそれほど引くわけでもない魚が掛かった。ちょうどカワハギっぽいくらいの引きの強さだ。そして上がってきたのは待望のカワハギだ。うわさどおり大きい。そして肝はパンパンに膨らんでいる。今夜の肝和えが楽しみだ。
その後、すぐにアタリがあってまたカワハギが釣れた。調子が出てきた。そして3匹目。この時点で残りのエサは1匹になってしまった。
今日初めての釣りをした感じでは、錘が底をこすっている感触とアタリの区別がつきにくい。風と潮が緩いときはいいが、どちらかが速くなってくるとアタリがわからなくなる。これには慣れが必要だと思う。

しかし、型が大きいのがうれしい。胴突き仕掛けだと大きいのは半分くらいの数しかないし、それよりもイソベラの猛攻のなかからやっと数匹カワハギを釣るというストレスがないのがうれしい。
1匹は叔父さんの家に持って行って2匹を持ちかえって薄造りにしたのだが、ちょっと贅沢に厚めに切ってもかなりの分量を皿に並べることができた。なにより、中骨を毛抜きで抜かなくても片身を半分にして引いても十分な大きさの身を取ることができる。もちろん肝も巨大だ。

今日は自販機の400円のエサを買ってきたのだが、1匹まるまる使うので消耗が激しい。2時間足らずでほぼ使い切った勘定になる。



まあ、この釣りは潮の変わり目くらいの時間にやるというのがいいようなのでこのくらいのエサの量で何匹かのカワハギをものにできれば十分だ。
などと言っても、今日はたまたまビギナーズラックで釣りあげることができたのだろうということになりかねないが、次の機会も楽しみにしたいものだ。

まったくの秋晴れという午前中。久々にちょっとましかなと思える釣果を得ることができた。




魚を締めているとき、ちょっと油断をした隙に真鯛に指先を噛まれてしまった。幸いにしてすぐに血は止まったが、真鯛の噛む力というのはけっこうなものだ。ずっと金づちで叩かれたみたいに指先の感覚がマヒしているような感じがしている。相手も命がけなのだら仕方がない。


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