若竹千佐子 「おらおらでひとりいぐも 」読了
今年の初めに第158回芥川賞を受賞した作品だ。1月半ばに貸し出し予約をしてやっと順番が回ってきた。僕の後には40人の貸し出し予約がある・・・。
玄冬の頃を迎えた主人公が親との関係、子供との関係、そして自分の過去を否定するのではなく肯定しようと努力するというようなあらすじだ。
もう、誰から見られても、「おいやん」と呼ばれるようになった僕にはこの話はなんとなくよく解ってしまうのだ。
昔、というか、つい最近まで親というのは絶対的で完璧なものだと思っていた。そして超えられないものだと思っていたのだけれども、ふと気がつくと案外そうでもないのではないかと思うときがくる。父親しかできないと思っていたことが意外簡単にやれてしまうことがあったりすると特にそんなに思うことがある。欠点なんてない人たちだと思っていたがそうではないのだと気付くときがくる。
話は変わるけれども、その、親を絶対と思ってしまうという究極の災いがあの、5歳の女の子の虐待死だろう。最近はまあ、ろくなニュースがないけれど、もあんな悲惨な事件はないのではないだろうか。あんな親たちは額に「私たちは自分の子供を虐待して死なせてしまいました。」という言葉を刺青して世間に放逐すべきではないだろうか。
子供に対してもこれははじめから最後までそうだけれども偉そうに接していいものだろうか、そんなに絶対的なものでもないし、会社では叱られっぱなしだからあなたに叱る資格なんてあったものじゃないという後ろめたさしかなかった。これはもう、人のことを言えるような立場ではない。そしてすでにすべての面で追い越されてしまった。子供にバカにされるのも仕方がないのである。まあ、魚を釣る技術だけはまだ勝っているかもしれないが・・・。
過去に対してはどうだろうか、学生時代から劣等感の塊で、実際社会に出ても多分うまく順応ができていないことを恥ずべきことだと思いながらここまできてしまったけれども、最近になってやっと開き直ることができるようになったように思う。
僕はまだ、どこか別の世界の声を聞くことができるほど老いてはいないけれども、ああ、ひょっとしたら以外とたくさんのひとが自分と同じような劣等感を抱きながら生きているのかもしれないとこの本を読むと思えるのである。よく考えると、ブログやSNSなんてその裏返しみたいなところがあるのだと思いついたりもするのである。
主人公もそんな人のようである。
自分というものを押し殺して生きてきた。そして今、自分らしい生き方というものを見つけたようなそうでないような・・。そしてそれは孤独を受け入れること、今までの自分を否定することで本当の自分を見つけることそしてそれが自分のために生きるということになるということ。タイトルはそんなことを意味している。
ちょっと偉そうな評価をすると、芥川賞を取る作品にしてはテーマがあまりにも普遍的というか、誰でも思いつくようなものという感じがする。思えばエヴァンゲリオンだってそのテーマの半分はこれだ。だからおそらく賞を狙っているようなギラギラした作家はスルーしてしまうが、この作家はそういう構えたところがなくて自分の書きたいと思ったままのテーマを選んだことが逆に新鮮味を審査員に与えたのではないだろうか。そんな気がするのだ。
今年の初めに第158回芥川賞を受賞した作品だ。1月半ばに貸し出し予約をしてやっと順番が回ってきた。僕の後には40人の貸し出し予約がある・・・。
玄冬の頃を迎えた主人公が親との関係、子供との関係、そして自分の過去を否定するのではなく肯定しようと努力するというようなあらすじだ。
もう、誰から見られても、「おいやん」と呼ばれるようになった僕にはこの話はなんとなくよく解ってしまうのだ。
昔、というか、つい最近まで親というのは絶対的で完璧なものだと思っていた。そして超えられないものだと思っていたのだけれども、ふと気がつくと案外そうでもないのではないかと思うときがくる。父親しかできないと思っていたことが意外簡単にやれてしまうことがあったりすると特にそんなに思うことがある。欠点なんてない人たちだと思っていたがそうではないのだと気付くときがくる。
話は変わるけれども、その、親を絶対と思ってしまうという究極の災いがあの、5歳の女の子の虐待死だろう。最近はまあ、ろくなニュースがないけれど、もあんな悲惨な事件はないのではないだろうか。あんな親たちは額に「私たちは自分の子供を虐待して死なせてしまいました。」という言葉を刺青して世間に放逐すべきではないだろうか。
子供に対してもこれははじめから最後までそうだけれども偉そうに接していいものだろうか、そんなに絶対的なものでもないし、会社では叱られっぱなしだからあなたに叱る資格なんてあったものじゃないという後ろめたさしかなかった。これはもう、人のことを言えるような立場ではない。そしてすでにすべての面で追い越されてしまった。子供にバカにされるのも仕方がないのである。まあ、魚を釣る技術だけはまだ勝っているかもしれないが・・・。
過去に対してはどうだろうか、学生時代から劣等感の塊で、実際社会に出ても多分うまく順応ができていないことを恥ずべきことだと思いながらここまできてしまったけれども、最近になってやっと開き直ることができるようになったように思う。
僕はまだ、どこか別の世界の声を聞くことができるほど老いてはいないけれども、ああ、ひょっとしたら以外とたくさんのひとが自分と同じような劣等感を抱きながら生きているのかもしれないとこの本を読むと思えるのである。よく考えると、ブログやSNSなんてその裏返しみたいなところがあるのだと思いついたりもするのである。
主人公もそんな人のようである。
自分というものを押し殺して生きてきた。そして今、自分らしい生き方というものを見つけたようなそうでないような・・。そしてそれは孤独を受け入れること、今までの自分を否定することで本当の自分を見つけることそしてそれが自分のために生きるということになるということ。タイトルはそんなことを意味している。
ちょっと偉そうな評価をすると、芥川賞を取る作品にしてはテーマがあまりにも普遍的というか、誰でも思いつくようなものという感じがする。思えばエヴァンゲリオンだってそのテーマの半分はこれだ。だからおそらく賞を狙っているようなギラギラした作家はスルーしてしまうが、この作家はそういう構えたところがなくて自分の書きたいと思ったままのテーマを選んだことが逆に新鮮味を審査員に与えたのではないだろうか。そんな気がするのだ。
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