前田亜紀 「カレーライスを一から作る: 関野吉晴ゼミ」読了
冒険家で医師である関野吉晴が大学でおこなった、「カレーを一から作る。」という公開ゼミのドキュメンタリーである。著者は後に映画にもしたそうである。
関野吉晴はアフリカから世界中に広がった人類の足跡を逆に辿るという、グレートジャーニーをした冒険かとして有名である。リヤカーを引いて旅をしていた人というので知っている人もいるのではないだろうか。しかし、今は武蔵野美大で教授をしているそうだ。やっぱりすごい人はすごい。
食材をスーパーで買ってきてカレーを作るというのではなくて、その食材を自分たちで育てるところからはじめようというものだ。食べ物の始まりを辿るという、関野吉晴ならではの企画である。
どうして「ゼロ」からではないかというと、人間の食べ物というのは、食塩を除いては植物を含めてすべて命のあるものを殺して調達するものである。というところから、命は作ることができない。だから“一から”ということになるのである。う~ん、言われてみるとそのとおりだと思った。含蓄がある。
現代社会では化学調味料や食品添加物など、生命でないものも人間は口にするようになってしまったけれども本来はすべてのものが自然からもらってくるものであったのだ。それがいったいどういう意味を持っているのかということを、カレーを作ることを通して体験してみるというのがこのゼミの内容だ。約1年をかけて、米、にんじん、ジャガイモ、タマネギはもとより、香辛料、そして肉までも育てるのだ。
農業の経験のない大学生が四苦八苦しながら野菜を育て、鳥を飼うのであるが、この本のクライマックスはやはり鳥の命を奪って食材にするという行為がどういう意味を持っているのかということを学生ひとりひとり、それに加えて読者に問いかけているところだろうか。4つ足の動物は法律で場で処理をしなければならないけれども鳥は自分たちで締めても法律上問題はないそうだ。動物は育てているうちに愛着が湧いてくる。それを殺して食べることができるのか。それが大きなテーマのひとつになっている。ある人は無理して食べることはないではないか。食べるとしても卵を産み終えてある程度鳥の人生を全うさせてあげてからでもいいのではないかと言い、ある学生は、食べるために育てているのであるから当然食べるべきであるという。
関野はそこで、ペットと食材としての生き物の違いについて説明する。アフリカの原住民はペットのインコが死ぬと3日間は泣いて暮らすが、森で見つけたインコは美味そうだといって獲って食べる。結局は、人間を含めて動物はすべて自分の都合で生きている(命を殺して食べている。)のだと結論付けるのである。それを受け入れられるかどうかそれだけである。結局鳥の首を捻じる役は関野教授がやっていたというのは現実的である。
釣った魚を殺すというのも確かに自分の都合だ。このゼミに参加した人たちの中にもそう思った人がいたのかもしれないけれども、この魚を殺して食べなくても今の自分は飢えるわけではない。そうなら無理に殺すことはないのではないだろうか。
そこに少なからず罪悪感が生まれる。しかし、お金と引き換えに食べているものも誰かに命を奪われたもの。お金を代わりにして罪悪感から逃れようとしているとも受け取れる。
参加者の女性のひとりが、「人間は卑怯だ」という感想を書いていたけれども、まさにその通りに思う。
それに折り合えるような答えはないのだろうからどうしようもない。卑怯な人間として覚悟を持って魚を締めよう。
冒険家で医師である関野吉晴が大学でおこなった、「カレーを一から作る。」という公開ゼミのドキュメンタリーである。著者は後に映画にもしたそうである。
関野吉晴はアフリカから世界中に広がった人類の足跡を逆に辿るという、グレートジャーニーをした冒険かとして有名である。リヤカーを引いて旅をしていた人というので知っている人もいるのではないだろうか。しかし、今は武蔵野美大で教授をしているそうだ。やっぱりすごい人はすごい。
食材をスーパーで買ってきてカレーを作るというのではなくて、その食材を自分たちで育てるところからはじめようというものだ。食べ物の始まりを辿るという、関野吉晴ならではの企画である。
どうして「ゼロ」からではないかというと、人間の食べ物というのは、食塩を除いては植物を含めてすべて命のあるものを殺して調達するものである。というところから、命は作ることができない。だから“一から”ということになるのである。う~ん、言われてみるとそのとおりだと思った。含蓄がある。
現代社会では化学調味料や食品添加物など、生命でないものも人間は口にするようになってしまったけれども本来はすべてのものが自然からもらってくるものであったのだ。それがいったいどういう意味を持っているのかということを、カレーを作ることを通して体験してみるというのがこのゼミの内容だ。約1年をかけて、米、にんじん、ジャガイモ、タマネギはもとより、香辛料、そして肉までも育てるのだ。
農業の経験のない大学生が四苦八苦しながら野菜を育て、鳥を飼うのであるが、この本のクライマックスはやはり鳥の命を奪って食材にするという行為がどういう意味を持っているのかということを学生ひとりひとり、それに加えて読者に問いかけているところだろうか。4つ足の動物は法律で場で処理をしなければならないけれども鳥は自分たちで締めても法律上問題はないそうだ。動物は育てているうちに愛着が湧いてくる。それを殺して食べることができるのか。それが大きなテーマのひとつになっている。ある人は無理して食べることはないではないか。食べるとしても卵を産み終えてある程度鳥の人生を全うさせてあげてからでもいいのではないかと言い、ある学生は、食べるために育てているのであるから当然食べるべきであるという。
関野はそこで、ペットと食材としての生き物の違いについて説明する。アフリカの原住民はペットのインコが死ぬと3日間は泣いて暮らすが、森で見つけたインコは美味そうだといって獲って食べる。結局は、人間を含めて動物はすべて自分の都合で生きている(命を殺して食べている。)のだと結論付けるのである。それを受け入れられるかどうかそれだけである。結局鳥の首を捻じる役は関野教授がやっていたというのは現実的である。
釣った魚を殺すというのも確かに自分の都合だ。このゼミに参加した人たちの中にもそう思った人がいたのかもしれないけれども、この魚を殺して食べなくても今の自分は飢えるわけではない。そうなら無理に殺すことはないのではないだろうか。
そこに少なからず罪悪感が生まれる。しかし、お金と引き換えに食べているものも誰かに命を奪われたもの。お金を代わりにして罪悪感から逃れようとしているとも受け取れる。
参加者の女性のひとりが、「人間は卑怯だ」という感想を書いていたけれども、まさにその通りに思う。
それに折り合えるような答えはないのだろうからどうしようもない。卑怯な人間として覚悟を持って魚を締めよう。