イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「人口と日本経済 読了

2018年06月29日 | 2018読書
吉川洋「人口と日本経済 読了

この本は人口問題と経済成長について書かれたものであるのだが、今の日本は人口減少、超高齢化社会を迎えていて、このままの調子で減少を続けていれば、西暦3776年8月14日に子供の数がひとりになってしまうらしい。超高齢化は社会保障給付費が膨らみ続け日本の経済は破綻すると言われている。

そんな中、日本は経済成長を続けていけるのかというのがこの本の論旨である。
そしてもうひとつ興味を引くのは経済成長と人間の寿命、ちょっと哲学的にはなってくるけれども、人間にとって経済成長とはなにか、ということについて書かれた部分だ。

一般的には人口が減少するとその国のGDPも減少すると言われている。しかし、日本を例にとってみても人口の増加率と経済成長率には比例的な関係がない。それよりもイノベーションによる労働生産性の向上の影響が大きいという。その根拠を基にどの時代も画期的なイノベーションがおこなわれひとり当たりの労働生産性は上がり景気は維持されるというのが著者の見解だ。

著者は一方でゼロ成長の社会についても言及している。J.S.ミルの学説だが、所得格差が少なくより平等な所得配分がなされる社会がよい社会だという結論だ。
こんな言葉で説明をされているが、なるほど、これもひとつの考え方であると思える。
「人間にとって最善の状態は、誰も貧しくなく、さらに豊かになろうとも思わず、豊かになろうとする他人の努力により誰も脅威を感じることがないような状態である。」
この言葉をなるほどと考える人間はものぐさな人間と言われるのだろうか・・。

そして歴史の中では経済成長を続ける社会に向かうか、ゼロ成長ですべての国民が平等にある程度の幸せを享受する社会を目指す方向に傾くかの繰り返しがおこなわれ続けてきた。
著者はどちらかというと前者の意見を重視しているように見え、遠い将来、労働生産性がどんどん上がったとき、人々が消費をしたい魅力的なモノさえあれば経済成長は続くのだと書いている。

しかし、人の生活に必要なイノベーションに限りはないのだろうか。たしかに直近ではインターネットは大きなイノベーションであったろうし、一家に1台自動車を持てるようになったのもイノベーションであるが、いったいこれ以上何か望めるものがあるのだろうか。少なくとも僕は自動運転するクルマはいらないし、寂しい時に話し相手になってくれるスピーカーも必要はない。そんな人がかなりのボリュームで存在するとしたら、これからのイノベーションはどれほど経済成長に寄与するのかは疑問であるのだ。



マルサスの人口論では食料供給が増えれば人口は増加するというのがテーゼとなっている。すなわち、労働生産性が上がれば食料も増え、人口は増加する。しかしながら、現代、これだけ経済成長を成し遂げながら人口は減少している。はたしてそれはなぜだろうか。
社会の進歩とともに若い人々が楽しむサービスやモノの種類は拡大してゆく。そうしたモノやサービスを楽しむためには時間もかかるし、お金もかかる。その結果、多大の時間と経済的なコストを要する出産・子育ては敬遠される。そんな理由があるとする。
我が郷土の幹事長は「このごろ子どもを産まない方が幸せに送れるのではないかと、勝手なことを自分で考えている人がいる。」と言って批判を浴びていたけれども幹事長が国民の生活の向上を図れば図るほど国民の人口は減っていくというのはなんとも皮肉なものだ。しかし、ここでジニ係数というものが出てくるのだが、これはその国の貧富の差がどれだけあるかという指標になり、これが低いほど平等の度合いが高く、平均寿命も高くなるという。日本は戦後、ジニ係数はかなり小さくなり平均寿命が世界一となった。著者はそれを日本の国の最大の成果だという。これも与党の努力の賜物であると言えるが、あれ?これも超高齢化を招き年金制度を破綻に導いているとしたら、これも皮肉なものだ。
しかし、ひとの寿命が伸びるということは絶対にいいことだからよしとしようではないか。

そして、経済成長のエンジンのひとつである消費についても著者はおもしろい見解をしている。
それは“贅沢”である。消費が拡大するためには“ムダ”なものの消費が欠かせないというのだ。例えば美術、芸術がそうである。生命を維持するためには不必要なものの代表であるけれども、ボクが働いている業界もそんなムダな消費の一翼を担っている。たしかに昨今、日本の景気が悪くなってきたというのと時を同じくしてウチもボーナスがなくなった・・・。そしてもうひとつは“恋愛”である。特に女性がリードする恋愛というものは消費を増進する。贅沢の根元を探ってゆくとこの“女性がリードする恋愛”に行きつくのだそうだ。これが学問として証明されているというのも不思議なものだが、考えてみると当たり前のようにも思う。女は男にお金を使わないけれども男は女にお金を使う・・・。

と、なると、女性の社会進出というのは本当に経済成長のエンジンになりうるのかが疑問になってくる。男と女が同じことをし始めると消費は拡大するのか?相手が同じなら別に気を引こうとは思わなくなるのではないだろうか?和歌山県には日本で最高齢の助産婦さんがいるそうだが、その人の言葉である。

近頃は男女平等、平等って言いますけど、女は昔っから特権階級ですよ。神様が子供を産むということを女の人に与えているわけじゃないですか。日本の昔の女性が賢かったのは、自分が上位であるけどそれを表向きは隠していたことです。旦那を立てる。でも実際は自分が上位。そういう家庭が、多くあったんですよ。
 でもそれがいつの間にか、仕事の面で「女性が抑圧されている」って世の中がなりました。それで安倍首相なんかもいろんな政策をやっとるんでしょうけど「女性が安心して働けるように」っていう感じのものが多い。でもそれは自己中心主義の気持ちを、助長させるような政策に思えるんです。
 男女雇用機会均等法ができて以降、家庭でも会社でも、女性と男性が同じような役割を果たすべきという考えが当たり前になりました。でも私はこれには断固反対です。男性と女性は本来、全く違うんです。同じようにしたら歪みが出てくるんは当たり前です。セックスレスの夫婦は最近ほんとに多くて、深刻な問題やなぁと思うんですが、男と女がおんなじようになってきたら、セックスせん人が増えるんは分かる気もします。
こうなると人口も増えなくなる。

まあ、ゼロ成長の政治をするのだとか、女性は家庭を守るんだというような政治をするのだとかで選挙をしようものならまずその政権は倒れる。生物としての行動と人間が思う理想とは違うようで、どこまでいっても平行線を辿るようだからやっぱり西暦3776年をじっと待つしかないということだろう。
この数字が富士山の標高を同じであるというのは何かの偶然なのだろうか・・・。
結局は自分が幸せと思うことを確信をもって遂行することに尽きるということか・・・。
コメント
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