イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

浜の宮沖~マリーナシティ沖釣行

2017年08月11日 | 2017釣り
場所:浜の宮沖~マリーナシティ沖
条件:中潮 8:06満潮
釣果:キス 26匹

今年はキスが全然釣れない。台風が過ぎて少しはよくなっているかもしれないと今年最後のキス釣りに出てみた。
まずは浜の宮沖から。



祝日なのに1艘も船がいない。釣れていない雰囲気がムンムンしている。
ごくたまにアタリはあるがなかなかハリに乗ってこない。やっぱり調子はよくなさそうだ。エサ代を300円にしておいてよかった。
なんとか10匹は釣り上げないとおかずにはならない。ダメ元で移動を決意。ワックン灯台の前で仕掛けを下すが、ここは海底がかなり汚れているようでバイオフィルムが仕掛けにいっぱいくっ付いてくる。
ここも期待ができないのでポルトヨーロッパの観覧車の前に移動。



ここはよく釣れるポイントらしい。船も1艘浮かんでいる。
淡い期待を抱いて仕掛けを下してみると間もなくアタリが出た。その後もポツポツとアタリが出る。うまく群れの上を通過すると一瞬だが自転車操業状態になってくれる。300円のエサじゃ足りないじゃないかとセコい自分を恨んでしまう。

しかし、そんな時間も長続きしない。潮が動かなくなってくるとアタリが遠のき始めた。風がなく、太陽が顔をのぞかせてくるとものすごく暑い。結局午前9時でギブアップ。300円のエサも余ってしまう始末だ。
エサ代をケチっておいてよかったとなぜだか得をした気分になったのだ。
何とか夕食のおかずは確保できた。

釣りを終えて今日はユズコショウの最後の仕込み。
叔父さんの畑で植えてもらっている韓国激辛唐辛子をせっせと収穫し塩漬けにしておいたものに青柚子をすりおろして熟成させる。

 

この柚子のすりおろし作業には苦労する。小さなおろし金で小さな柚子を握って18個も皮をすりおろすと指がこむら返りしてしまう。
智辯和歌山と興南の試合が始まる前から作業を開始し、6点のビハインドをひっくり返した時にようやく擦り終わることができた。
今年も1年分として保存ビン3本半を仕込んだ。



そして今年は、「麹南蛮」というものを仕込んでみた。



これは東北地方でよく作られているものらしくて、僕の奥さんのお父さんの実家からおこぼれがたまに回ってくる。
これがものすごく美味しいので自分でも作ってみようとネットの情報を集めてレシピを考えてみた。
熟成にはもう少しかかりそうだが、さて、新作のお味はどうだろうか・・・。
コメント (2)
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「オートメーション・バカ -先端技術がわたしたちにしていること」読了

2017年08月09日 | 2017読書
ニコラス・G・カー/著 篠儀直子/訳 「オートメーション・バカ -先端技術がわたしたちにしていること」読了

若い頃からなのだが記憶力がまったくといっていいほどない。もっと記憶力がよければもっといい大学を出てもっといい会社に入ってもっと豊かな生活ができたのではないかといまでもつくづく思う。このブログを書き始めたのもいつ、どこで、どんな魚を釣ったかも覚えられないからなのであって、また、読んだ本のタイトルも忘れてしまうからなのだ。そして、最近は特にその症状が激しくなったように思う。歳のせいだとも思うが、コンピューターに頼りすぎているところも無きにしもあらずなのではないだろうかとうすうす思っていた。知りたいもの、欲しいものがあったとしてもすべてを記憶していなくても、断片的なキーワードを入力すれば目的のものにたどり着く。そんなことを繰り返し続けるうちにきちんと記憶する能力がどんどん退化しているに違いない。

実際、この本を読むと、人間とはそういうものらしい。機械に頼ってい続けるとさまざまな能力は退化してゆくというのだ。
産業革命以来、技術の発展はさまざまなものをオートメーション化してきた。まだ、コンピューターができる前、ベルトコンベアでの流れ作業によるオートメーションによってもの作りの作業工程は細分化されてすべてを作り上げる職人技が失われた。
自動操縦というのは飛行機の操縦から発展したらしいが、この技術に慣れてくるとパイロットというのは緊急時に操縦桿を引いていいのか押していいのかさえもわからなくなるそうだ。また、医者たちは診断の際に画像解析装置を使い続けるとそれだけに頼りきり経験に基づいた診断にミスが現れてくるというのだ。
効率を求める実業家や為政者はそれでもオートメーションやAIの導入に躊躇しない。証券取引の世界ではAIによる売買の速度が1秒間に10万回おこなわれ、それは人間の神経の反応速度をはるかに超えてしまっている。そうなってくるとオートメーションは人間のためのものなのかそれとも人間はオートメーションのための補助装置なのかがわからなくなってくる。
それでもどんどん発達してくるAIの能力はオートメーション化が劣ってきた人間の能力を十分に補完することができるようになってくるのであるが、そこに“倫理”という問題が大きく立ちはだかってくる。
この本は車の自動運転を例にとって書いているが、例えば、自動運転している車の前にボールを追いかけてきた子供が飛び出てきたとする。右にハンドルを切れば車は対向車か壁に激突し乗員が被害に遭う。それを回避するためにハンドルを切らなかったら飛び出てきた子供が被害者になる。どちらの行動をとるか、人間ならば“倫理”といわれるものによる判断があるが確率論で動くAIには世間に認めてもらえるような説得力はない。ここにオートメーションの限界があるのだと結論付けている。

たしかに、魚探の力を借りて魚の群れを見つけられるのはうれしいが、そこから勝手にリールのクラッチが切られて仕掛けが降りてゆき、魚が自動的に船べりまで上がってくるとこっちは興ざめするというものだ。

しかし、この判断や、倫理についてだが、フェイスブックの創始者、マーク・ザッカーバーグの、「アイデンティティはひとつだ。」ということばが紹介されていた。仕事仲間や同僚に対してとほかの知り合いに対してとで違うイメージを見せる時代はきっとあっという間に終わりになる。ここで人のアイデンティティは完全に固定される。偽りの人格は無くなるというのだ。
それほど遠くない将来、SNSやインターネットに掲示されている個人の書き込みをAIに学習させることによって人工的にそのひとの人格を作り上げることができるようになるそうだ。
そんなことができるようになってその人格を自分自身が運転する自動運転車に植え付けられるようになれば、この事故はあなたが運転していたとしてもそうなる事故でしたということになってしまう。そうなるとひょっとしたら倫理の問題も解決してしまうのではないだろうか。ということはこれほど異常と思えるほど普及してしまったSNSの世界というのはこうやってひとの人格をコンピューターに移植するための前準備とでもいうのだろうか。
しかし、そこまで自動化された世界に住むという価値はどれほどあるというのだろうか。

著者の言うとおり、人の力を手助けする技術は歓迎されるべきだが、それを超えて判断する技術、そういうものは果たして必要なのか。いやいや、多分そんなものは必要ないのだ。「行動せよ、知覚せよ。」この言葉に尽きるのだと思う。
僕は地下鉄の通路をスマホの画面を見ながら無表情にゾンビのように歩く人間にはなりたくない。車は自分の意のままに操りたい。ただ、船も車もGPSは許してもらいたい。そこは山たてができないのは退化と言われても無理。退化というまえに教育をされていない・・・。
遅れていると言われても最後までそうありたいと思うのだ。


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「風の盆恋歌」読了

2017年08月02日 | 2017読書
高橋治 「風の盆恋歌」読了

古本屋の100円均一の棚でこの本を見つけた。高橋治が亡くなったのはもう2年も前だ。ずっと昔、「秘伝」という小説を読んだことがあるきりだったが、お盆を前にして読んでみた。

ユーチューブの動画を見てみるとなんとも哀愁が漂う踊りだ。菅笠を深く被って踊るさまはそれぞれの人が秘めた思いを込めているように見える。まさに小説の内容そのものだ。あの人差し指の先には何があるというのだろうか・・・。
胡弓の音色が長い人生のひだみたいなものを余計に浮かび上がらせているようにも思える。

あらすじはこれから読もうと思うひとのために取っておくとして、主人公は僕とほぼ同い年、学生時代の同級生との不倫の物語というくらいまでは許してもたらいたい。

僕の学生時代は、太い、近眼、頭悪いという三拍子で片思いはあっても思われるようなことはみじんもなかった。しかし、50歳も半ばを迎えると色々な意味で恋をするなんていうことの最後のチャンスではあるのだろう。
遠い昔に恋い焦がれたひとと再び恋に落ちるなんていうことは多分、人生最大のしあわせではないだろうか。
しかしながら上記の件のおかげで僕にはとうていお鉢が回ってこないことなので余計にこの物語に愛着を覚えてしまう。もちろん、チャンスはあっても先立つものもないのも現実だが・・・。

ついこの前、船を持つということは不倫と同じだと偉そうに語ってみたが、やっぱり船は僕に語りかけてくれることもなく、触っても柔らかいわけではなく、不倫をするには生身のほうが絶対によいのだとヨレヨレの午前中を過ごしながら思うぼくの人生は一体なんだったんだろうかと悲しくなってしまうのだ。



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初島沖釣行

2017年08月02日 | 2017釣り
場所:初島沖
条件:若潮 8:56干潮
釣果:マゴチ 1匹 チャリコ 1匹

今日は隣に係留している、元同僚の船に乗せてもらってタイラバを使っての釣行だ。
あの、寂びれた街の場末のバーのカウンターの内側に立っている場違いなほど美人なママにたとえたボートだ。
彼の友人にタイラバの名人がいるらしい。その人に極意を教えてもらおうという魂胆だ。

ボートのエンジンは150馬力。軽く20数ノットは出る。



初島沖まで20分ほどで到着してしまった。僕の船とは速度の差は圧倒的だ。一緒に出港するのはやめておこう・・・。

そしてこのタイラバも名人と圧倒的なテクニックの差がでてしまった。
アタリを取る数がまったく違う。
彼を含めて同船したメンバーは次々とアタリを取るのに僕にはまったくアタリが来ない。同じ赤い色のラバーを使っているのだがまったくダメだ。
結局小さなアタリが1回だけあっただけで、その後見るに見かねた名人が私のタイラバを使ってくれということで用意をしてくれた。

それでも彼らとのアタリの数の差は開くばかりだったが僕にもなんとかアタリがありマゴチを1匹。その後チャリコを1匹。
なんとか形にはなったが、なんとも煮え切らない釣行であった。

しかし、いくつかのヒントももらえた。
僕のタイラバと名人のタイラバには大きな違いがいくつかあった。

まず、シンカーの大きさだ。僕は一番小さなサイズが20号であったが、名人がメインで使うシンカーは60グラム。号数でいうと15号くらいだろうか。
そしてハリも小さい。これは半分くらいの大きさだ。使っている糸も細い。
メインのラバーはS字で、ヒゲのゴムの本数も少なくて同系色を使っているようだ。



ぱっと見だけでもとりあえずこれだけの違いがあった。参考にさせてもらおうと使わせてもらったラバーとハリをもらってきたのでじっくり分析をしてみたいと思う。

もともと僕が作ったタイラバも別の同僚が使っていたものを真似て作ったものなので釣れないことはないのだろうが、そこのところがわからない。
そうなってくると致命的だが誘い方が下手なのだということになってしまう。
聞いてみると、5~10回巻き上げてアタリがなければ仕掛けを下しなおしていたらしい。
その時々で違うそうだが今日はそうだったということだ。
僕はダラダラ中層辺りまで巻き上げてみたりだったのでアタリを捉える機会というのは名人の方が断トツに多かったのかもしれない。
それと、帰ろうとしない。その執念も差を広げられた要因のひとつだと言えるのは間違いがない。今日は正午ごろまでやっていたが、この暑さでは体力が持たない。
彼らは朝からなぜだか日焼け止めを塗っていて、ぼくはまあ遅くても10時までだろうとしか考えていなかったもので、そこまで気にしなくてもと思っていたが初めから気合の入れ方がちがったのだ。

そして場末の美人ママのオーナーの船のいたわり様もこれまた違いすぎた。
帰港してからポリタンに用意した真水でキャビンを洗い始めた。すでにワックスもかけられているので水滴は玉になって落ちてくる。隣に係留している僕の船の塗装は傷みすぎていて船体のどこを触っても白い粉が指にたっぷりくっ付いてくる。
そりゃ~、そんなに大事にしてもらっているのを隣で見ている僕の船はひがみもすれば魚を釣らせてやろうなどとはみじんも思わないだろう。
これは困ったものだ。いつになったら機嫌を直してくれるのだろう・・・。

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