イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「旧約聖書の世界」読了

2022年11月05日 | 2022読書
谷口江里也/著 ギュスターヴ・ドレ/画 「旧約聖書の世界」読了

長い旅に持って行く本として師が挙げているのが旧約聖書とレストランのメニューだということがいくつかの本で書かれていた。信仰心がなくてもそれほど想像力をかきたてるのが聖書というのだろう。何冊か旧約聖書について書かれた本を読んだが、この本はかなり詳しく書かれている。
詳しく書かれているといっても、元の旧約聖書というのは、日本聖書教会発行の「聖書 新共同訳」で上下2段組で1502ページあるのだから、本編300ページで書かれ、その3分の1はギュスターヴ・ドレという画家が描いた版画が掲載されているので相当な意訳にはなっている。部分部分は聖書そのものの日本語訳が書かれ、その前後は物語のダイジェストという構成になっていてその場面を描いた版画がセットされるという構成だ。
版画が掲載されていたり、天の部分には金箔が貼られていたりと、聖書らしい重厚感がある。値段も重厚で、税込み4400円だ。



キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の原典になっているのがこの旧約聖書だけれども、もともとはユダヤ人が信じる神様のお話である。それがどうして世界中で信仰の対象になっているのかというは確かに不思議なことである。およそ宗教というのは世界中のどの場所でも発生していて信じられていたはずだがいつの間にかキリスト教やイスラム教に鞍替えされてしまっている。ヨーロッパの植民地であったところは無理やり改宗させられたということがあるのだろうが、そのヨーロッパの各国がユダヤ人の宗教を信じるようになったというのはなかなか謎だ。ローマにはたくさんの神様がいたし、北欧にも独特の神話が伝わってきたのでそれをずっと信じ続けてもよかったはずなのだが・・。

その謎を僕なりに考えてみようと思って、同時進行で古事記の現代語訳も読んでみていた。
旧約聖書は、唯一の神様であるヤウエイ(とこの本にはつづられている。)が生み出したアダムとイヴ、その10代目の子孫であるノア、さらに10代目の子孫であるアブラム(とこの本にはつづられている)の一族と神との関係が書かれた書物である。アブラムの子供のイサクの双子の子供ひとりであるヤコブがイスラエル人の元祖なのであるが、その一族が故郷であるカナンの地を離れエジプトに向かう。その子孫がモーセ(とこの本にはづつられている)であり、再びカナンの地を目指す。
この、ヤコブという人は、父親のイサクが老いてきたことにつけ込んで、父から一族の長とする祝福をだまし取ったり、家督を継ぐ兄からも財産をだまし取ったりする。
ユダヤ人というのは狡猾、用心深さ、忍耐強さがあり、これはある意味差別的な意味も込められているのだろうが、お金にも執着するというあまり良いイメージを持たれていないが、これも聖書の時代から植え付けられているイメージのようである。しかし、天使と一晩中戦っても負けなかったという不屈の精神も持っていて、その時に神様から「イスラエル」と名乗れと言われたというのだから今のイスラエル人の強さというのも聖書の時代から受け継がれているのであるから驚きだ。ここらあたりは創世記である。
そして彼らは飢饉が訪れた故郷を捨てエジプトに逃れたあと、モーセに率いられ再び神の宣託によってカナンの地に向かいイスラエル王国を建国するのだが、この辺りの物語は国土を得るための戦いの物語になる。確かに、こんなことは「イスラエル」な人々ではなかなかできない偉業ではあると思う。そういった物語は、出エジプト記、民数記、ヨシュア記という部分に当たる。サムソン王やダビデ王が登場する。その後、イスラエル王国は一番の隆盛を極める。ここは士師記、烈王記に当たる。ここではソロモン王が登場する。その後、この国は衰退をしてゆくのだが、それらはエレミア書、エゼキエル書、エズラ記、ヨブ記などにたくさんの預言者が登場し、国を腐敗させる様々なものを糾弾し排除しようと努力するが結局、イスラエルのユダヤ人たちはちりぢりバラバラになり世界をさまようようになる。その跡地に住み始めたのがパレスチナ人で、2千数百年後再びこの地でユダヤ人たちがイスラエルを建国したことがこの辺りの紛争の素になっているというはある意味、聖書の世界を引きづっていると言えるのだからすごいし因縁も深そうだ。
対して、日本の建国の物語は穏やかなものだ。
イザナギの命とイザナミの命が日本の島々を創って以来、大した戦いもなく、スサノオノミコトの末裔の大国主命が拡大した国土は、スサノオノの姉(無性生殖ではあるが両神ともイザナギの命から生まれた感じなので姉弟という関係といってもよいだろう)である天照大神の末裔のヒコホノニニギの命にあっさりと譲ってしまうのである。姉弟の相続争いといえばそうなのかもしれないが、何事もなくその子孫が代々の天皇となる。古事記には神武天皇が東に向かって進軍した戦いの記録があるだけで代々の天皇は平和的に正しい政治をおこなってこの国を治めたことになっている。
異教徒は殲滅せよという旧約聖書の世界とは対極にあるように思えるのだ。

地政学ではないが、やはり島国と大陸にあって陸続きで国境を持っていた国の違いなのだろうが、常に戦っていないと自分の国が無くなってしまう中ではたとえそれに疲れたとしても戦わねばならず、心を奮い立たせるためにはそれは人を超えたものから与えられた運命なのだと思うしかなかったのだろうと思うしかなくて、旧約聖書というのはそれにぴったりな物語であったということであったのだろうと思うのだ。しかし、結局、それも実際のところは人間が創り出したものなのだから、なんだか戦うことへの言い訳の無限のループの思想のようにむなしくも思えてくるのである。

ヨーロッパも地続きの国がせめぎ合う世界だから、自分たちが戦う正当性と意味を信じ込むにはちょうどよかったのかもしれない。ギリシャや北欧にはたくさんの神話や宗教が伝わっていたのだろうが、アニミズムや楽天的な神様たちの物語では心を奮い立たせることはできなかったのだろうと思う。

それに加えて、この書物が文字で書かれていたということも大きかったのではないだろうか。旧約聖書が生まれた場所というのは世界で初めて文字が生まれた地域だそうだ。モーセが授けられた十戒も石板に文字で刻まれていたくらいだ。それを見た人たちは、きっと、これはただものではないと中身はともかく、文字の羅列を見ただけで畏れ入ってしまったのではないかとも思うのである。だから、どこに行ってもあっさり信じられてしまったのかもしれないと思ったのだ。

この感想文とはまったく関係がないが、文字が生まれたのはたかだか5000年ほど前のことで、ホモサピエンスが生まれた20万年と比べるとほんのわずかな時間しか経っていない。だから、人間の脳は進化の部分では文字を認識する機能を持っていないらしい。それではどこで文字を認識しているかというと、人の顔を認識しているような領域を使っているらしいのである。人の顔というのは大体左右対称なので、実は左右対称ではない文字を認識するは苦手で、それを無理やりなんとか使っているというのが現状なのだそうだ。だから、鏡文字というような誤った書き方をしてしまうことがあるというのである。大体は大きくなるとそういうことがなくなってくるのだそうだが、僕は時々そういったことを今でもしてしまう。
思い当たるのが、人の顔を覚えるのがものすごく苦手だということだ。だから、文字も覚えるのが苦手で偏と旁を逆に書いてしまったりということになってしまう。どうも僕の脳は子供の頃から発達をやめてしまったようなのだということを知ってしまったのだ。ここでも僕の脳ミソは人並みではないということを思い知ってしまった。

それはさておき、2700年前に生まれた聖書の世界を引きずってイスラエルは戦っているのだと思うと、そんなに簡単にはあの地域に平和がもたらされるということはなく、そのほかの地域でも似たりよったりの思想を持った人たちが戦いを続けているのだから、世界に平和がもたらされるということはなく、むしろ、戦いが行われている世界、そうとまでは言わないが、隣国とは分かり合えることができずに対峙した状態というのが正常な世界の在り方であるのではないかと神聖なものを読みながらも思ってしまったのである。




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