劉慈欣/著 大森望、古市雅子/訳 「流浪地球」読了
「三体」の著者が書いた6編のSF短編集である。
別に中国人が書いたSFのファンではないが、図書館で見つかるSFというとなぜか中国人の書いたものしかない。この本も新刊書の書架に並んでいたものだ。
欧米のSFというと、早川書店のSF文庫が有名だが、管内のどこかにはあるようだ。しかし、わざわざその書架までは探しに行くほどSFが好きだというわけではないのでチャイニーズSFを読むことになる。これらの本は「中国文学」の書架に並んでいるので僕がうろつくルート上にあるというわけだ。
なので、欧米のSFと比較して論じるということはできないが、著者のSFというのは、現代科学の延長線上にあるということと、物語の時間軸が数百年、数千年と相当長いということだというのが特徴なのだろうと思う。
地球が惑星規模で滅亡の危機に陥ったとき、人類は持てる科学技術を応用し、途方もなく巨大なシステムを数百年の歳月を費やして建設、稼働させるというようなものや、数千年の時間を費やしてやっと到達できる隣の恒星系への旅立ちの物語なのである。
一見、荒唐無稽と思えるが、ひょっとしてそんな時代が訪れる、もしくは、今でもやろうと思えばやってしまえるのではないかと思えてくるプロットが興味をそそる部分でもある。
この本の6編うち、表題作を含めた3編は地球の滅亡を回避するための人類の努力と葛藤の物語。1編は途方もない距離を旅して隣の恒星系のさらに先を目指そうとする男の物語。1編は到来した異文明との遭遇。1編はコンピューターウイルスが引き起こすちょっとコミカルな物語となっている。
それぞれのあらすじを書いておくと、
「流浪地球」
太陽内部の核融合スピードが加速しすぎ、3世紀後にはヘリウムフラッシュという激しい爆発を起こすということを知った地球で、これを回避するために地球ごと隣の恒星系であるプロキシマ・ケンタウリを目指すという物語である。
そのために開発されたのが地球エンジンと呼ばれる、一万二千基の重元素核融合エンジンだ。その熱と加速に力により地球の環境は荒廃し、政治的には連合政府という統一国家が生まれているがその旅に対して疑問と反旗を翻す人々がいる。
反対運動の最中、とうとうヘリウムフラッシュが地球を襲い、地球人は太陽系での存続をあきらめプロキシマ・ケンタウリを目指さす。
「ミクロ紀元」
太陽の重力崩壊により、1万8千年後、巨大フレアが地球を襲うことを察知した地球人は新たな移住先を求めて〈先駆者〉と呼ばれる12隻の恒星間宇宙船を送り出す。
宇宙船時間の23年後、それは地球上では2万5千年後となるのであるが、唯一生き残った先駆者が地球に戻ってきた。そこにはもとあった地球文明は存在せず、2万5千年の間に地球人が生き残るために生み出したミクロ文明が創られていた。
唯ひとり生き残った〈先駆者〉のクルーはその文明を守るため、搭載していたマクロ世代(もとの地球文明)の生物を復活させるための胚細胞を全滅させる。
「呑食者」
地球をエイリアンが襲う。その宇宙船は外径5万キロ、内径3万キロという、地球をすっぽり包み込むことができるサイズのタイヤのような形状だ。このエイリアンは標的の惑星をその中に包み込み、すべての資源を奪いとる。
地球もその標的になる。地球人はそれに対抗すべく、1万基の熱核爆弾により月を衝突させて宇宙船を破壊しようとする。
しかし、それには失敗し、その作戦の過程でエイリアンの正体がかつて地球上で繁栄した恐竜の末裔であることを知る。
地球の資源は奪い去られ、人類はエイリアンの食料として家畜となるが、戦いを挑んだ軍人たちは英雄としてエイリアンたちに迎え入れられる機会を与えられる。しかし、彼らはそれを断り、地球に残る道を選ぶ。唯一残された蟻と植物と共に地球の復活のために自らの体を蟻たちの栄養源として捧げるのである。
「呪い5.0」
ひとりの女性が失恋?した相手を呪うために作ったコンピューターウイルス、これはただ恨みの言葉を一度きりディスプレイに表示させるだけのまったく無害なものであったがその後、様々な人たちが手を加えてゆくなかで特定の条件を満たした人たちを攻撃するようになる。そして、最後から2番目にウイルスを改変させたのはこの本の著者である劉慈欣だ。「*(アスタリスク)」を使って攻撃対象を広げ、山西省太原の市民を攻撃するように改変したウイルスは街を焼きはらう。さらに何者かによって「*」の範囲を広げた5.0バージョンに改変されたウイルスは全世界の都市を攻撃し始める。
僕のイニシャルは「M.M.」だが、この「MM」というのは、中国のスラングではかわいい女の子という意味があるということをこの短編で初めて知った。
「中国太陽」
主人公は盲流と呼ばれる小学校しか出ていない農村出身の出稼ぎ労働者だ。偶然知り合った男は固体物理学の教授でナノミラーフィルムの特許を持っていた。私財を投じて製品化しようとしたが失敗し、主人公と同じく社会の底辺でもがいていたが、中国の国家プロジェクトである砂漠の緑化や気候改変のための宇宙空間からの反射鏡の材料に採用される。
超高層ビルのガラスの清掃員となっていた主人公はその男性に誘われ、宇宙降雨間での反射鏡の清掃員として採用される。人類で初めての宇宙空間での労働者となったのである。
無重力空間で療養をしていたスティーヴン・ホーキンスとの交流を経ることで、反射鏡を改造した光圧力を利用した宇宙船の建造を提案し、それに自ら乗り込み、恒星間の宇宙探検に出発する。
「山」
異星文明が地球にやってくる。その文明は、地球とはまったく環境が異なり、地球世界でいう空間が岩石で満たされている世界であった。巨大な宇宙船の引力で海面がせり上がり9千100メートルの山となる。
事情があり、山から遠ざかり海洋調査船に登場していた元登山家はその山に泳いで登ろうと決意する。
そしてその頂上で異星文明とコンタクトを果たす。
そこで教えられた知的生命体の本能とは・・。
先にも書いたが、物語のほとんどは途方もない巨大施設と長い時間軸の中で繰り広げられる。宇宙と対峙するためにはそれほどの規模が必要であるということだろうが、はたしてこんなことが現実に起こりうるか・・?もちろん、起こらないからSFなのであろうが、欧米のSFでもこういったありそうでなさそうな大ぶろしきを広げるものであろうか。いっそのこと、もっと荒唐無稽なプロットでもいいのではないかと思ったりもしてしまう。
しかし、「山」の中で、著者は異星文明人にこう語らせる。『登山とは、知的生命の本能だ。知的生命なら、だれでもみな、より高い場所に立ち、より遠くを見たいと願うものだが、その欲求は、生存に必要なものではない。たとえばおまえだ。もし生き延びたいなら、山から遠く離れるはずだ。しかし、おまえは登ってきた。高みへ登りたいという欲求を進化が知的生命に与えたのには深い意味がある。しかしその理由は、われわれにもまだわからない。山はいたるところにある。われわれはまだ、山のふもとにいる。』
まさにこの精神で書かれたのがこれらのSFであると見えてくる。別の見方をしてみれば、この精神があれば、これらの建造物や冒険、宇宙への進出は現実のものとなるのだと著者は確信しているのかもしれない。
ただ、経済的な面からみてみるとどうだろうか。これだけの投資に見合うだけのリターンを得ることはできるのだろうか。地球の存亡をかけた投資だといっても、極限まで環境を破壊し、ただ生き延びるためだけに世界のGDPの数百年分でも足らない投資を人類はすることができるのだろうか。
昨日の新聞記事に、はじめて核融合で入力したエネルギーよりも大きなエネルギーを得ることができたという記事が出ていたが、35億ドルを投入してやっとヤカン数杯分の水を沸かす程度のエネルギーを得た程度だったそうだ。
宇宙開発というと初期はもっと割に合わない投資になるだろう。地球外からいろいろな資源を持ってきて開発するというのが当面の目標となるのだろうがはたして投資に見合うほどの利益を得ることができるのだろうか。それとも、投資を繰り返してゆくことで地球圏の経済規模は膨らんでいくのだろうか。
それはきっとこの核融合実験が商業ベースに乗るのかどうか、その成否にかかっているのではないかと読み終えた日の新聞記事を見ながら思うのである。
「三体」の著者が書いた6編のSF短編集である。
別に中国人が書いたSFのファンではないが、図書館で見つかるSFというとなぜか中国人の書いたものしかない。この本も新刊書の書架に並んでいたものだ。
欧米のSFというと、早川書店のSF文庫が有名だが、管内のどこかにはあるようだ。しかし、わざわざその書架までは探しに行くほどSFが好きだというわけではないのでチャイニーズSFを読むことになる。これらの本は「中国文学」の書架に並んでいるので僕がうろつくルート上にあるというわけだ。
なので、欧米のSFと比較して論じるということはできないが、著者のSFというのは、現代科学の延長線上にあるということと、物語の時間軸が数百年、数千年と相当長いということだというのが特徴なのだろうと思う。
地球が惑星規模で滅亡の危機に陥ったとき、人類は持てる科学技術を応用し、途方もなく巨大なシステムを数百年の歳月を費やして建設、稼働させるというようなものや、数千年の時間を費やしてやっと到達できる隣の恒星系への旅立ちの物語なのである。
一見、荒唐無稽と思えるが、ひょっとしてそんな時代が訪れる、もしくは、今でもやろうと思えばやってしまえるのではないかと思えてくるプロットが興味をそそる部分でもある。
この本の6編うち、表題作を含めた3編は地球の滅亡を回避するための人類の努力と葛藤の物語。1編は途方もない距離を旅して隣の恒星系のさらに先を目指そうとする男の物語。1編は到来した異文明との遭遇。1編はコンピューターウイルスが引き起こすちょっとコミカルな物語となっている。
それぞれのあらすじを書いておくと、
「流浪地球」
太陽内部の核融合スピードが加速しすぎ、3世紀後にはヘリウムフラッシュという激しい爆発を起こすということを知った地球で、これを回避するために地球ごと隣の恒星系であるプロキシマ・ケンタウリを目指すという物語である。
そのために開発されたのが地球エンジンと呼ばれる、一万二千基の重元素核融合エンジンだ。その熱と加速に力により地球の環境は荒廃し、政治的には連合政府という統一国家が生まれているがその旅に対して疑問と反旗を翻す人々がいる。
反対運動の最中、とうとうヘリウムフラッシュが地球を襲い、地球人は太陽系での存続をあきらめプロキシマ・ケンタウリを目指さす。
「ミクロ紀元」
太陽の重力崩壊により、1万8千年後、巨大フレアが地球を襲うことを察知した地球人は新たな移住先を求めて〈先駆者〉と呼ばれる12隻の恒星間宇宙船を送り出す。
宇宙船時間の23年後、それは地球上では2万5千年後となるのであるが、唯一生き残った先駆者が地球に戻ってきた。そこにはもとあった地球文明は存在せず、2万5千年の間に地球人が生き残るために生み出したミクロ文明が創られていた。
唯ひとり生き残った〈先駆者〉のクルーはその文明を守るため、搭載していたマクロ世代(もとの地球文明)の生物を復活させるための胚細胞を全滅させる。
「呑食者」
地球をエイリアンが襲う。その宇宙船は外径5万キロ、内径3万キロという、地球をすっぽり包み込むことができるサイズのタイヤのような形状だ。このエイリアンは標的の惑星をその中に包み込み、すべての資源を奪いとる。
地球もその標的になる。地球人はそれに対抗すべく、1万基の熱核爆弾により月を衝突させて宇宙船を破壊しようとする。
しかし、それには失敗し、その作戦の過程でエイリアンの正体がかつて地球上で繁栄した恐竜の末裔であることを知る。
地球の資源は奪い去られ、人類はエイリアンの食料として家畜となるが、戦いを挑んだ軍人たちは英雄としてエイリアンたちに迎え入れられる機会を与えられる。しかし、彼らはそれを断り、地球に残る道を選ぶ。唯一残された蟻と植物と共に地球の復活のために自らの体を蟻たちの栄養源として捧げるのである。
「呪い5.0」
ひとりの女性が失恋?した相手を呪うために作ったコンピューターウイルス、これはただ恨みの言葉を一度きりディスプレイに表示させるだけのまったく無害なものであったがその後、様々な人たちが手を加えてゆくなかで特定の条件を満たした人たちを攻撃するようになる。そして、最後から2番目にウイルスを改変させたのはこの本の著者である劉慈欣だ。「*(アスタリスク)」を使って攻撃対象を広げ、山西省太原の市民を攻撃するように改変したウイルスは街を焼きはらう。さらに何者かによって「*」の範囲を広げた5.0バージョンに改変されたウイルスは全世界の都市を攻撃し始める。
僕のイニシャルは「M.M.」だが、この「MM」というのは、中国のスラングではかわいい女の子という意味があるということをこの短編で初めて知った。
「中国太陽」
主人公は盲流と呼ばれる小学校しか出ていない農村出身の出稼ぎ労働者だ。偶然知り合った男は固体物理学の教授でナノミラーフィルムの特許を持っていた。私財を投じて製品化しようとしたが失敗し、主人公と同じく社会の底辺でもがいていたが、中国の国家プロジェクトである砂漠の緑化や気候改変のための宇宙空間からの反射鏡の材料に採用される。
超高層ビルのガラスの清掃員となっていた主人公はその男性に誘われ、宇宙降雨間での反射鏡の清掃員として採用される。人類で初めての宇宙空間での労働者となったのである。
無重力空間で療養をしていたスティーヴン・ホーキンスとの交流を経ることで、反射鏡を改造した光圧力を利用した宇宙船の建造を提案し、それに自ら乗り込み、恒星間の宇宙探検に出発する。
「山」
異星文明が地球にやってくる。その文明は、地球とはまったく環境が異なり、地球世界でいう空間が岩石で満たされている世界であった。巨大な宇宙船の引力で海面がせり上がり9千100メートルの山となる。
事情があり、山から遠ざかり海洋調査船に登場していた元登山家はその山に泳いで登ろうと決意する。
そしてその頂上で異星文明とコンタクトを果たす。
そこで教えられた知的生命体の本能とは・・。
先にも書いたが、物語のほとんどは途方もない巨大施設と長い時間軸の中で繰り広げられる。宇宙と対峙するためにはそれほどの規模が必要であるということだろうが、はたしてこんなことが現実に起こりうるか・・?もちろん、起こらないからSFなのであろうが、欧米のSFでもこういったありそうでなさそうな大ぶろしきを広げるものであろうか。いっそのこと、もっと荒唐無稽なプロットでもいいのではないかと思ったりもしてしまう。
しかし、「山」の中で、著者は異星文明人にこう語らせる。『登山とは、知的生命の本能だ。知的生命なら、だれでもみな、より高い場所に立ち、より遠くを見たいと願うものだが、その欲求は、生存に必要なものではない。たとえばおまえだ。もし生き延びたいなら、山から遠く離れるはずだ。しかし、おまえは登ってきた。高みへ登りたいという欲求を進化が知的生命に与えたのには深い意味がある。しかしその理由は、われわれにもまだわからない。山はいたるところにある。われわれはまだ、山のふもとにいる。』
まさにこの精神で書かれたのがこれらのSFであると見えてくる。別の見方をしてみれば、この精神があれば、これらの建造物や冒険、宇宙への進出は現実のものとなるのだと著者は確信しているのかもしれない。
ただ、経済的な面からみてみるとどうだろうか。これだけの投資に見合うだけのリターンを得ることはできるのだろうか。地球の存亡をかけた投資だといっても、極限まで環境を破壊し、ただ生き延びるためだけに世界のGDPの数百年分でも足らない投資を人類はすることができるのだろうか。
昨日の新聞記事に、はじめて核融合で入力したエネルギーよりも大きなエネルギーを得ることができたという記事が出ていたが、35億ドルを投入してやっとヤカン数杯分の水を沸かす程度のエネルギーを得た程度だったそうだ。
宇宙開発というと初期はもっと割に合わない投資になるだろう。地球外からいろいろな資源を持ってきて開発するというのが当面の目標となるのだろうがはたして投資に見合うほどの利益を得ることができるのだろうか。それとも、投資を繰り返してゆくことで地球圏の経済規模は膨らんでいくのだろうか。
それはきっとこの核融合実験が商業ベースに乗るのかどうか、その成否にかかっているのではないかと読み終えた日の新聞記事を見ながら思うのである。
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