イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「NHKラジオ深夜便 絶望名言」読了

2020年05月17日 | 2020読書
頭木弘樹、NHK<ラジオ深夜便>制作班/著 「NHKラジオ深夜便 絶望名言」読了

変わったタイトルの本だと思い手に取ってみた。
この本は、NHKラジオで放送されていたものをそのまま対話形式で書き起こしたものだ。

文学者とアナウンサーの会話であるけれども、文学者曰く、人生につまずいたときには何か希望が湧いてくる文章や歌よりも絶望感のあるもののほうが受け入れられやすいという。
失恋したときには失恋ソングを聞いたほうが心が慰められるという。確かにそうかもしれない。
文学者は大学生の頃から13年間も闘病生活を続け入退院を繰り返した。
その体験を通して上記のような思いを持ったそうだ。
その名言を発するのは文学史に出てくるような作家たちだ。カフカ、ドストエフスキー、ゲーテ、太宰治、芥川龍之介・・・こんな人たちが紹介されている。

それぞれの作家たちの絶望名言をいくつか書き出してみる。

カフカ
『ぼくは人生に必要な能力を、なにひとつ備えておらず、ただ人間的な弱みしか持っていない。』
『無能、あらゆる点で、しかも完壁に。』
『将来にむかって歩くことは、ぼくにはきません。将来にむかってつまずくこと、これはできます。いちばんうまくできるのは、斃れたままでいることです。』

ドストエフスキー
『人生には悩みごとや苦しみごとは山ほどあるけれど、その報いというものははなはだすくない。』
『僕がどの程度に苦しんでいるものやら、他人には決してわかるもんじゃありゃしない。なぜならば、それはあくまでも他人であって、僕ではないからだ。おまけに人間てやつは他人を苦悩者と認めることをあまり喜ばないものだからね。』

ゲーテ
『絶望することができない者は、生きるに値しない。』
『快適な暮らしの中で想像力を失った人たちは、無限の苦悩というものを認めようとはしない。ても、ある、あるんだ。どんな慰めも恥ずべきものでしかなく、絶望が義務であるような場合が。』

太宰治
『弱虫は、幸福をさえおそれるものです。綿で怪我をするんです。幸福に傷つけられることもあるんです。』
『名案がふっと胸に浮かんでも、トカトントン
火事場に駆けつけようとして、トカトントン
お酒を飲んで、
も少し飲んでみようかと思ってトカトントン
自殺を考えてトカトントン』

芥川龍之介
『どうせ生きているからには、苦しいのはあたり前だと思え。』

なんともみんな素晴らしいほどの業績を残しながら、それでも自分を卑下している。それじゃあ、僕などはもっとどん底でいるしかないと悲しくなる。
太宰治のトカトントンにはなぜか共感する。何かをやりたいと思っていても心の中のどこかから「そんなのやっても無駄じゃないの?」みたいな声がしてくる。そして結局なにもかも面倒になってくる。
そう思って他の名言も読んでみると、絶望する人イコール面倒くさがりじゃないだろうかと思えてきた。たしかに忙しくしていると絶望している暇がなくなるのかもしれない。
ドストエフスキーや芥川龍之介は徳川家康のようだ。人生は絶望がついて回るということを知ったうえでも努力するひとが何かを成しうるひとであるのかもしれないと思う。


世界の人を楽観主義者と悲観主義者のふたつに分けるとしたら、僕は間違いない悲観主義者の部類に入るのだろうと思う。この本でも話されているけれども、幸せな状態が続くといつかまた不幸な状況が襲ってくるかもしれない。それなら、いつも不幸せのほうがそれに対する耐性ができるからいいのではないかと思ってしまう。よいほうに捉えると、いつも何か悪いことが起こると思っているとそれに対する警戒心が起きて不測の事態に備えることができることもある。
ずっとそんな感覚で生きてきたように思う。
昇格しても責任が重くなってもっと上の人から叱られることが多くなるのではないかと思い、子供ができても大きな荷物をしょい込んだとしか思えなかった。師の自伝的小説に、「青い月曜日」というのがあって、子供が生まれ、喜ぶでもなく逆に病院の廊下に呆然と主人公がたたずんで物語はおわるのだが、そんな本を読んでいたからかどうか、僕も同じ感覚であった。
大体が、悲観主義者でなかったら、このタイトルの本が目に止まることはない。

ふと思ったのだが、希望を持って生きるかと人生に絶望してしまうという分かれ目というのは、病気をして苦痛がなくならないということを除けば、人の役に立っているかどうかということを実感しているかどうかじゃないだろうか。
「あなたの役目は終わった。もう必要ないよ。」と言われるのが一番つらい。それでも働きに行かなければならないのがサラリーマンだ。3週間以上も仕事場を抜けてコンビニに行かされていても事務所は普通に回っている。メールも来なくなった。頭を使うこともなくなった。それが現実だ。他の部署で同じように狩り出された人たちの中には、年齢的な違いもあるのだろうが特に何の違和感もなく逆に張り切っているように見える人もいた。僕にはとてもじゃないがそんな気持ちにはなれない。彼らはそれでもそこに何か得るものを見つけることができたのだろうか。ペイペイの決済をレジ打ちできるようになったとしてそれが将来の業務の役に立つとでもいうのだろうか。

同じ部署にいる人で同じように狩り出された人は強引にそれを断ったそうだ。僕が事務所に戻った時、こんなことを言った。「お互い、あの大型店のオープンのために一生懸命尽くしたのに、あの時、たとえ業績がうまく上がらなかったとはいえ、この会社には社員に対するリスペクトがないんじゃないだろうか。僕はこんな仕打ちには断固抵抗した。」
なるほど、この人はこの人なりのプライドをちゃんと持っているんだ。しかし、僕には今さらそういう気概さえもなくなってしまった。役にたつもたたないも、いまはこれをやれと言われたことと淡々とやるだけでそれ以上でもそれ以下でもない。
そうは思いながらも今さらとはなんだけれども、今の仕事はやっぱり今さらやらされるような仕事でもない気がする。一体僕にはプライドがあるのかないのか、それさえも不確かになってきた。
そもそも、このコロナ禍の中で、休業していてもおそらく困る人の割合が一番少ない業界ではなかっただろうか。世間からも役に立っていると思われず、その中でも役に立っていないとなるとまったく処置なしだ。
そんなことを考えていると絶望という感覚とは別だが、味気ない毎日である。

しかし、救いは、この本で取り上げられている人たちは絶望しながらもそれをよしとして生きてきたような印象をもつことだ。カフカは残した小説も絶望的な内容だったが、私生活はそれほど苦しい生き方をしたわけではなかったそうだ。芥川龍之介は最後は自殺をしたけれども、それを選ぶのも自分の自由のひとつだと考えていたらしい。
太宰はそうとう空威張りをいていたらしく、表向き、陽気に装うというのはこれはかなり辛かったのだろうなと思ったりするけれども、そういうのはこのひとくらいだ。

それを見習うなら、表向きはまじめに仕事をして、上司に従順なふりをしながら、後ろを向いてあっかんべーをしていてやるくらいがちょうどよさそうだ。
ごまめの歯ぎしりでしかないけれども、それがこんな会社に対する一矢報いるひとつの方法でもあると思うのだ。
新聞のコラムにはこんな言葉が書かれていた。
喜怒哀楽のうち、怒りと哀(かな)しみは積もるものであり、喜びと楽しさは積もらない。
確かにこの2か月半、怒りと哀しみは積もるばかりだった。ある意味、コロナウイルスはそれを救ってくれたように思う。当初の命令なら今もコンビニで店員をやっていたはずだ。しかし、コロナショックのおかげで増えた休みが山や海へいざなってくれた。喜びと楽しさは積もらないかもしれないが、怒りと哀しみに対する解毒剤にはなったのかもしれない。

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