イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「量子力学の奥深くに隠されているもの: コペンハーゲン解釈から多世界理論へ」読了

2021年02月11日 | 2021読書
ショーン キャロル/著、塩原 通緒/訳 「量子力学の奥深くに隠されているもの: コペンハーゲン解釈から多世界理論へ」読了

いつもブログの読書の感想を書くときは、大体半分くらい読み終わった頃からどんな作文にしようかと考え始めるのだが、“量子”とか、“宇宙”とか、“物理”とかいうタイトルが入っている本はどうやって書いていこうかと悩んでしまう。読んでいてもまったくわからないのだ。(まだ、寝てしまわずに文字を追えているだけ我ながら立派だと思う・・)
それでも、この奇妙な世界には興味があってつい手に取ってしまう。

この本のタイトルになっている、「奥深くに隠されているもの」とは、量子論の中の不確定性原理から導き出せる「多世界理論」だ。この理論に基づくと、物質を形作っている素になっている量子は、(人に)観測されるまでは一体どんな状態でいるかということがわからなくて、観測されることによってはじめてその位置と運動方向がわかる。(ニュートンの古典力学ではすべての物質には位置と速度が決まっているとされている、)
観測されるまではどの方向に向かっているのかということは確率の世界になっていてそれぞれの確率が合わさった状態になっている。そして観測されたとたんに確率として重ね合わさった別の世界が生まれるというのだ。これは「シュレーディンガーの猫」というパラドックスで有名だが、このパラドックスに例えると、箱の中を見たとたんに生きている猫の世界と死んだ猫の世界に枝分かれするということになり、そのどちらかが自分が生きている世界になる。もちろん、猫が死んだ世界にももう一人の自分がいることになる。そしてそんな枝分かれがいろいろなところで無数に起こっているのである。
しかし、この、多世界理論のもとになっている『波動関数』から導き出せる世界はまさにこのような世界らしいのである。というか、この世界は波動関数がシュレーディンガー方程式を使って解かれる数式の世界であるというのだ。

このような確率の世界というのは、波のような状態で振動しているという。それが、観測が行われた瞬間に収束して実態を表すというのだ。波が漂っている場所を「場」と呼び、このような考えを、「場の量子論」と呼ぶ。アインシュタインはそれに対して、『月は我々が見ていないときには存在しないのか?』と言ったそうだ。もちろんこれは量子単位のミクロの世界での話のことになるのだが、このミクロな粒子が集まって人間があり、月があるのだからそんなに考えてしまう。
僕は確かに人生を波のように漂っているのだが、場の量子論からいくと“波のように”ではなく、“波”なのだ。そして誰かに見られた時だけ僕という実体を現す。

そして「奥深くに隠されているもの」を発見することこそ、この奇妙な世界と古典力学の世界=現実のこの世界をつなぐことになるのだというのがこの本の趣旨である。

多世界理論は量子力学の学問の中ではコペンハーゲン解釈と言われているそうだが、ちょっと無責任で、『観測は原理と心得よ、波動関数は観測された時点で収縮するのであって背後で何がおこっているのかは考えなくてよい。』という考えだそうだ。
アインシュタインはこれに反対し、『事象の背後で何が起こっているのと問うことが物理学の義務である。』として、月の例えを持ち出したそうだ。

では、著者はどう考えているか、『量子力学は奇妙なものに見られるかもしれないが、これは、微視的な世界についての現時点での最上の理論である。』と言いながらも、量子力学を『古典力学がそうであるように量子力学も一つの枠組みであり、その枠組みの中で様々な物理系を論じることができる。』と定義し、この理論から導き出せる様々な不思議な世界も頭の中で考えることができる世界のひとつでありそれが現実の世界の法則を示しているとは限らない。分岐した無数の世界が実在したとしてもそこを覗き見ることは不可能だと数式レベルでも証明されているらしく、『私たちの生き方をなんら変えるものではない。』とも言う。確かにその通りだ。いままでそんな世界からの干渉を受けたことはない。(幽霊というのはひょっとしたらそんな世界からの訪問者なのかもしれないが・・)
こういうことを前提として、量子力学を、『人工的な形而上学』だと決めつける人もいるそうだ。
たくさんの物理学者が様々な宇宙のモデルを作っている。その中には普通の感覚ではまったくそれはあり得ないだろうと思うようなものもあるけれども、それもただ、方程式を作ってみたらこんな世界ができちゃったということだ。
最も信じられている、世界は波でできているとか、弦でできているとか、はたまた量子のもつれはたとえどんなに距離が離れていても一瞬で情報が伝わるのだとかいうようなことも、現実にそんなことが本当にあって、遠い将来、人類がそれを自由に操れるようになれば一体どんな世界になるのだろうとわくわくするのだが、それはやっぱりSFの世界でしかないのかもしれない。
これはちょっと皮肉が強すぎるかと思うが、去年の今頃読んでいた本には何千億円もかけて宇宙の謎を解き明かそうという行為は、単に科学者たちを養うための手段にすぎないと書かれていた。しかし、それもあながち嘘ではなさそうな気がしてくるのである。
しかし、こういった考えがもとになってGPSが機能し、この文章を書いているパソコンができているのも事実だ。奇妙な世界は実在するのだという。
著者もそういいながらこの不可思議な世界を不可思議なりに数式で解明しようとしている。
まるで、「アルキメデスの大戦」の主人公のようだ。

そして誰が文句を言おうとも、『私たちが世界を見たときに見えるものは、実際にあるものとは根本的に違って見えるのである。』というのが一応の通説となっている。その違って見える部分をこの本はなんとか繋ごうとしているのだが、果たしてそんな世界は本当に存在するのだろうか・・。最先端の科学者でもわからないことが文系の塊である僕にわかることがなく、自分の生き方が特に変わるものではないのなら、SF小説を読むときにちょっとだけそういう知識があるぞという程度でいいのかもしれない。

そして、もし可能なら、あの大物を逃した時に世界が枝分かれしていたのなら、別の世界でその魚を取り込んだ僕となんとか入れ替わってくれないものだろうかとやっぱりSF的なことしか思い浮かばないのである。

いっそのこと、僕はこう考えた。数学が使えないので、この世界とはシイタケであると考えた。シイタケはホダ木の中に張り巡らされた菌糸がひょんなことでホダ木の上にシイタケとして生え出してくる。シイタケは1本だけではなくいっぱい生えてくる。このしいたけひとつひとつが“多世界”で、それらの世界は菌糸でつながっているというのはどうだろうか・・。これで量子のもつれも説明できる。多世界はホダ木の中でつながっているのだ。
まあ、シイタケは宇宙だと考えるよりも食べたほうが美味しい・・。

コメント (4)
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