イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「この世界を知るための人類と科学の400万年史」読了

2021年02月20日 | 2021読書
レナード・ムロディナウ/著 水谷淳/訳 「この世界を知るための人類と科学の400万年史」読了

人類の創世から始まる科学史の本というのは似たり寄ったりに内容だが、読み物としては面白い。とくにこの本の著者は物理学者であるとともにスタートレックの脚本家のひとりということなので日本語訳になっていても文章としては面白い。
人類が直立歩行を始めてから量子論を発見するまでの400万年という時間を三つのパートに分けて書かれている。

第一部は、『直立した思索者たち』として類人猿からアリストテレスまでの数百万年という期間。
第二部は、『科学』として、ローマ時代からガリレオ・ガリレイ、ニュートン、ダーウィンまでの数百年の期間。
第三部は、『人間の五感を超えて』というタイトルでアインシュタインから量子論の発見までの数十年の期間を書いている。

人類の祖先である哺乳類が地上の征服者になるきっかけは6500万年前(この本では6600万年前と書かれている。)に巨大隕石が地球に衝突したときに始まる。それが猿になり、木の上から地上に降り立ったのが約320万年前。
それぞれ、人類史での大きなエポックを区切りとしているが、その期間が加速度的に短くなっているというのがこの本のひとつのミソでもある。この約6000万年に対して、人類の文化的進化は1万年であり、そこから現在まではさらに短い時間で文明を発展させることになる。

その人類が他の動物たちと異なりどうして都市を作り文明を創ったか。まずはそこから考察が始まる。
僕が教科書で習った文明の発達というのは、狩猟採集生活から定住生活に移行し、物質的に余裕ができたあとで宗教や都市が生まれたという歴史の流れであったが、著者は、トルコにあるギョベクリ・テペ遺跡を例に挙げ、人類が狩猟採集生活をしていたころにはすでに宗教心を持っていたはずだと書いている。
この遺跡は約1万1千年500年前の新石器時代の遺跡だそうだが、周りには人が定住した痕跡はなく、おそらく数百キロという広範囲から人間がやってきてこの遺跡を築いたのだろうと考えられている。この遺跡はなんらかの宗教的儀式のためのものと考えられており、人間は定住生活に入る前から何かしらの宗教心をもっていた証拠なのである。
人類はそういった巨大な宗教施設を建てるために定住生活をする必要ができた。当時の狩猟採集生活と定住の農耕生活をくらべると、狩猟採集生活の栄養価のほうがはるかに高かったそうだ。それを捨ててまで定住生活に変化したというのは、よほどそうしないではいられない衝動があったということであろう。
その宗教心を持つようになるきっかけはやはり脳の発達であった。そして、その脳の発達が人間に“死”を認識させた。そこから宗教心が生まれ、ひいては都市を作り文明をつくる。それは、新石器時代の精神的でかつ文化的な革命であった。
そして元々、人間には疑問を解明したいという欲求が備わっていた。人類は「なぜ」を解明するために文明を発達させた。疑問を発する行為は人類にとって極めて重要であったのだ。そしてその「なぜ」が文明をさらに発展させた。
その過程で、自然世界も人間社会も何かの規則に従って動いている、もしくは動かねばならないという考えが生まれた。当時はそれをすべてひっくるめて“law(法)”という概念で考えられていた。三大文明が芽生え始めた時代だ。

時代は進み、ギリシャ時代になる。そしてアリストテレスの哲学が生まれる。アリストテレスの哲学は多岐に渡り、自然科学の分野では物理学については天動説や物体が移動するためには後ろから押し続ける何かの力が必要だという考えや化学では土・水・空気・火の四元素論、生物学では自然発生説などである。

アリストテレスの自然科学は現在ではもちろん否定されているが、1000年以上の間その考えが正しいと信じられてきた。
著者の考えでは、アリストテレスを否定する歴史が現代にまでつながる科学史あるというのだ。それはまた、この世界は神が創ったものであるという考えを否定するものであった。そしてその先にアリストテレス以下歴史上の誰もが考えもつかなかった量子論につながっていくのである。

物理学の分野ではだれでも知っているであろうガリレオ・ガリレイとニュートンが天動説、慣性の法則、万有引力の法則を発見した。
この本の中ではニュートンは科学分野の革命の中では最重要人物として書かれているが、けっこうオカルト的なこともやっていて、錬金術や宗教の研究にも情熱を燃やしていた。聖書の研究からは世界の終わりを西暦2060年から2344年と分析していたりするそうだ。環境問題や人口増加の問題を鑑みるとこれはけっこう当たっていそうな気がする。
それだけ、ニュートンの時代は神と自然法則が混沌としていた時代であったということなのだろう。

化学の分野では、僕自身はまったく知らなかったが1774年イギリス人のプリーストーリーという神父が酸素を発見し元素の考えが一新されたということが化学の分野でのエポックとなっている。酸素という言葉はフランス人のアントワーヌ・ラヴォアジエが名付けたものであったがこれを発見するに至る実験や考え方の基礎はプリーストーリーが築き上げ、そこからロシア人のドミトリ・メンデレーエフの元素の周期表につながってゆく。
ラボアジェは貴族の出身で莫大な遺産を引き継いだがそれを運用するために徴税請負人の仕事に投資をした。それがあだになり、フランス革命のときに共和政権によって処刑されるという悲しい運命をたどった。都市伝説らしいが、人間は首を切られた後でも意識があるのかということを自ら実験するため、生きている限りまばたきをし続けるのでそれを観察してくれと言ってギロチン台に上っていったそうだ。そしてその観察を依頼されたのが、ガンダム世界でスペースコロニーの建設が行われた、月と太陽と地球の引力が釣り合う地点、ラグランジュポイントに名を残す、フランス人のジョゼフ・ラグランジュであったと言われている。う~ん、そこまで科学に徹しきることができるとはすごい。

生物学の世界では、イギリス人のロバート・フックとオランダ人のアントーニ・レーウェンフックの2名が開発した顕微鏡に端を発する。ロバート・フックはニュートンとの確執で有名な人だそうだが、教科書では細胞の発見と命名者として載せられている。レーウェンフックの顕微鏡はフックの顕微鏡よりもさらに精巧で植物や動物の微細構造をつぶさに観察したそうだ。レーウェンフックという人は織物商で繊維の品質を確認する虫眼鏡を改造して顕微鏡を作ったらしい。
アリストテレスは、『すべての生物は神の知性によって設計されており、死ぬと体から離れる、あるいは消滅する特別な真髄をもっていると考えた。その生命の設計図の頂点にいるのが人間である。』と考えたけれども、フックやレーウェンフックが見た微細な世界にも精巧な構造があることがわかってきたのである。
それに続き、イタリアの医師のフランチェスコ・レディが腐敗の実験からアリストテレスの自然発生説を否定した。
そして、ダーウィンの進化論により、生物は環境下の自然選択により進化してきたものだという考えによって、人間は神が特別な設計図を基に作り上げた特別な存在であるという考えも完全に否定された。

こういった様々な研究は当時、教会に対して不信を抱く考えだと非難されるものでもあった。ニュートンやダーウィンはそれを恐れ、発表をためらうようなこともあった。ニュートンは、『神は言葉と業の両方を通じて自らの存在を示すのだから、宇宙の法則を研究することは神を研究することにほかならず、科学に対する熱意は宗教的な熱意のひとつにすぎない。』と信じていたが自分が生まれた年に亡くなったガリレオ・ガリレイの運命を知っていたのかどうかは知らないが発表をためらい、ダーウィンも種の起源の出版の際には同様であった。


著者の両親はユダヤ人でナチスの迫害を受けた人々のひとりであった。母は、ナチスの兵士が一列に並べたユダヤ人を何の根拠もなく思いつきのように頭をピストルで撃ちぬいていった。母親は列に並ばされていてたまたま生き残ったという。父も同様な体験をした。子供の頃からそういった話を聞かされていた著者はきっと神を含めた固有の意識が選択する未来の不公平さのようなものを感じていたのだと思う。そして、すべての出来事には理由があるという因果応報という考え方よりも、科学はいかなる目的にも従っていない(冷淡で無常である)世界のほうを好んだように思える。これは著者だけに限ったことではなく、人ならだれでも同じ感覚を持っているのかもしれない。
著者は、新石器時代の編で、『元々人間には、疑問を解明したいという欲求が備わっていた。』と言い、アインシュタインは、『かなたに見えるこの巨大な世界は、我々人間には関係なく存在していて、我々の前に大きな永遠の謎として立ちふさがり、我々の観察や思考では少なくともその一部しか理解できない。この世界について思索することは束縛からの解放のように魅力的だった』と言ったそうだが、長い人類の中で誰もが持っていたであろうその理不尽と思う心が、何の意思も存在しない自然の法則、『単純で決して破られない数えるほどの抽象的な法則によって、電子レンジの仕組みから周囲の世界に見られる自然の驚異まで宇宙のすべてを説明できる』といえるようなものを本能的に求めてきたのではないだろうか。
その理不尽との闘いがこの本の400万年の歴史に収められている本質のような気がしたのである。


僕は原子や量子について、かなり間違った解釈をしていたことがわかった。
元素と原子、量子論と量子力学という言葉だ。それぞれ同じようなものだと解釈していたが、言葉の使い方と発見、解釈された時期はまったく違っていた。

元素と原子についてであるが、元素は酸素や窒素といった純粋な素材の名前で、上で書いたプリーストーリーからはじまる様々な発見が最初だ。原子というのは元素を構成する一番小さな単位である。
原子の概念は1897年、イギリス人のジョゼフ・トムソンの電子の発見から、1911年同じくイギリス人のアーネスト・ラザフォードの惑星モデル、さらにデンマーク人のニールス・ボーアが提唱した、電子には軌道があることと、それぞれの軌道に入ることができる電子の数が決まっていること、電子が軌道を移動するときに電子は電磁波を発するという高校時代に文系の学生が習うモデルが確定された。
だから、元素と原子は一見似ているようだが発見時期も大きく違うのだ。
そして、原子というものが本当に存在するのだということを証明したのはアインシュタインだった。1905年に発表された有名な3本の論文のひとつにブラウン運動に関する論文がある。その運動こそが原子が本当に存在するという証明になった。
しかし、それからたった40年ほどで原子爆弾を作ってしまうのだから科学者たちというのはすごいと思う。40年という月日は長いか短いか・・。
ちなみに残りのふたつの論文というのは、光量子仮説という、光は粒であるという考えと、相対性理論だった。アインシュタインのノーベル賞は光量子仮説に対してであった。

量子論と量子力学についてだが、量子という概念はかなり古くかあり、1900年、マックスプランクが、「原子のエネルギーは無限に分割できない。」ということを発見し、量子という言葉を作ったということだ。アインシュタインよりも古い。
量子というのは、エネルギーでもあり、電子・中性子・陽子などの粒子のことも指し示す。量子論というのは、そういった量子がみせる奇妙なふるまいを説明したものなのである。ここに、ハイゼンベルクやシュレーディンガーが登場する。
この二つの言葉も似て非なるものだったのである。
僕の頭の中の科学史では、原子の構造が解明されたあと、アインシュタインが相対性理論を打ち立て、量子論の時代に入ったと思っていたのだが、これらはアインシュタインを中心にして一斉に理解が進んだというのが事実だった。

これらの量子論を組み立てていった人たちは戦争の波に呑み込まれていった人たちでもあた。
量子論を打ち立てた科学者たちにはユダヤ系やドイツ、オーストリアなどで研究を続けた人たちが多く、ナチスからは『ユダヤ人の物理学』であると迫害を受ける。そしてほとんどの科学者は迫害を逃れるためアメリカやイギリスに逃れる。
オーストリア人のヴォルフガング・パウリやラザフォードは亡命科学者の支援に動いた一方、プランク、ハイゼンベルク、ドイツ人のパスクアル・ヨルダン(初期の量子論の研究者のなかで唯一ノーベル賞をもらえなかった。その理由はナチ党に参加していたからである。)はドイツに残った。ハイゼンベルクやガイガーカウンターで有名なハンス・ガイガーはドイツの原爆開発計画にも参加していた。
逆に、爆撃機に搭載された爆弾の殻の中に隠れて命からがらスウェーデンからイギリスに逃げたボーアは後にマンハッタン計画の顧問となった。
著者は、こうした有能な科学者たちが運命に翻弄されてきたことを思うことで、さらに単純な法則のみに支配される世界を理想の世界であると考えたのかもしれないと思うのだ。

なかなか読みごたえのある本であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする