イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への大分岐」読了

2021年02月25日 | 2021読書
マルクス・ガブリエル/著、マイケル・ハート/著、ポール・メイソン/著、斎藤 幸平/編「資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への大分岐」読了

編者はひと月ほど前にNHKの「100分で名著」でマルクスの資本論の解説をしていた人だ。大阪市立大学の准教授で哲学と経済思想史の研究者だそうだ。そのときの話し方の歯切れがよかったので著作を探してみたらこの1冊が見つかった。

海外の著名な哲学者や政治学者との対話形式で現代の資本主義の矛盾点やその先のポストキャスタリズムといえる提言を論じあっている。

まず、近代の歴史の流れが簡単に説明されている。第二次世界大戦後の民主主義は社会民主主義から新民主主義へと変わってきた。高福祉社会から緊縮政治による競争を促す政治への転換だ。日本では小泉内閣が郵政民営化をはじめいくつかの改革をおこなった。その結果、格差、貧困という問題が生まれてきた。
それに対して未来の方向転換をどのようにしたらすべての人が幸福になれるのかという論証がなされている。
僕がそれらを読んで結論付けたのは、それらは確かに理想的ではあるが、おそらく実現することができたとしても長続きはせず、どこかで破綻をきたすに違いないということだ。そもそも実現はできないとも思う。
それは、「人間が人間である限り」ということにほかならないと思ったからだ。
三人の知識人が登場するが、哲学者やジャーナリストだ。哲学とは往古から形而上学的な思想で語られるし、ジャーナリストはまあジャーナリストだ。それを脱することはできないのだなと冷めた考えしか浮かばなかった。

最初の登場人物はマイケル・ハートである。この人も哲学者だそうだ。
この人のポストキャスタリズムへの考えは、「コモン」という考えだ。生活の基盤となる産業資本、例えば電力などを共有財産としていこうという考えだ。さらに発展して、ベーシックインカムという制度の導入も提唱している。それをすることで格差という問題が解消されるのだという。
資本主義の行きつく先は、すべてのものを価値に置き換えその価値(利益)を生むために天然資源のあらゆるものを食いつくそうとする。労働者もその労働力を価値に置き替えられ、資本家は利益を極大まで拡大しようとするから労働力という価値はどんどん低く買いたたかれる。これはマルクスの資本論の考え方の一角であるが、そうならないための対策が「コモン」と「ベーシックインカム」であるというのだ。
どうも社会主義的な考え方のように思えるが、マイケル・ハートによれば全員がアントレプレナー精神(起業家精神)を持って労使協業してゆく社会が生まれるのだという。社会主義はすでに失敗したと歴史的には考えられているが、マイケル・ハートは過去の社会主義との違いは現代の資本家と労働者の協業は、「下から」自律的に発生してくることが多いという。
う~ん、しかしどうなんだろう、社会主義の失敗は人間というのは基本的になまけものであるというところだったのではないだろうかと僕は思っているのだが、世の中のすべての人間がアントレプレナー精神をここにきて持つようになるとはとうてい思えない。自分自身を見つめてみても自律的にアイデアを生み、実践しているとは思えない。マイケル・ハート自身も楽観主義と語っているが、その通りではないだろうか。

次に登場するのはマルクス・ガブリエルである。この人も哲学者だ。この人、どこかで名前を聞いたことがあると思ったら、NHKの「欲望の資本主義」という番組に出演していた人だ。
この人は「ポスト真実」というものについて語っている。これは、情報テクノロジーの発展にともなって夥しい数の「真実」が生産されている中でつくり出された概念であるが、そのような状況のなかでは、普遍的な真実、これは倫理的なものと言い換えることができるかもしれないが、そういうものがわからなくなってしまう。そんな環境の中から次の世界をどうやって切り開いてゆくかという提案だ。
まず、現代はどんな時代であるかというと、「相対主義」の時代であるという、これは、「自明の事実」に向き合うことができなくなってしまった「ポスト真実」の時代に、その中で開き直るのが、「相対主義」である。本当の真実がわからないのなら、今の立場から相対的に考えられるものを真実と考えてしまおうという思考だ。
これは、世界のどこでも通用するような普遍的な意義のある概念なぞは存在せず、合理的な対話を行うための共通の土台を失ってしまった状態である。トランプの支持者などがそれにあたる。分断」というのも相対的に相手をみてしまうことから起こるのだという。
そこでマルクス・ガブリエルが考えたのが、熟読型民主主義である。現実を知っているものが“熟議”することが民主主義をよりよいものにするという考えである。これは新実在論という概念に基づいた新しい民主主義の進め方である。新実在論とは、相対主義に対して真実に対してそれをそのままに相対せよという考えである。
しかし、すべての世界の人が、あるひとつのものに対してまったく同じ価値観で相対することができるとは思えない。また、“現実を知っているもの”という定義を誰が誰に対して行えるのか。それを決める時点で真実はゆがめられ相対主義になってしまっているのではないだろうか。

最後に登場するのは、ポール・メイソンだ。このひとは経済ジャーナリストだそうだ。
ポール・メイソンが考えるポストキャスタリズムとは、情報テクノロジーの時代には資本主義が死んでいく世界だという。
テクノロジーが進化してゆく効果とは、限界費用のゼロ効果によって利潤の源泉が枯渇し、オートメーション化により仕事と賃金は切り離される。正のネットワーク効果により生産物と所有の結びつきが解消され、情報の民主化により生産過程も民主的なものになってゆく。要するに強制的・義務的な仕事から解放され、無償の機械を利用して必要なものを生産する社会となる。資本主義社会が消滅しユートピアをつくり出すことができるという考えだ。。
しかし、それを妨げる障害は多数存在している。現在の経済状態を維持したいと考える資本家やそのために無理に生き残らされているゾンビ企業たちであるという。(う~ん、僕が給料をもらっている会社も多分この類なのだろう・・)
しかし、この考えも、そんなに高度なテクノロジーが近い将来実現するのだろうか。宇宙戦艦ヤマトの船内ではオートメーションでコスモタイガーが作られていたが、あれは西暦2199年の社会だ。この本ではもっと早い時期に実現しないと社会構造は崩壊すると言っている。

3人の提言と予言はまさに理想だろうと思う。おそらく世界中の人たちが平等に幸せになれる。しかし、ナウシカの風の谷や未来少年コナンのハイハーバーくらいの規模の単位ならきっと実現可能で人々は幸せに暮らすことができるのかもしれないが、マイケル・ハートとマルクス・ガブリエルの考えは、これだけグローバル化した世界で実現するとはとうてい考えられないように思う。ひとは必ず隣の芝生を青く見る。そうすると集団間でいさかいがおこり征服者と被征服者が現れる。そして封建主義が生まれ共和制に移行し資本主義が生まれる。これは歴史が何度と繰り返したことだ。また、ポール・メイソンの考え方にしても、情報を握っている階級はお金も握っている。その利権を他の人々のために簡単に手放すだろうか、情報は見えない。見えない力は大半の人が気付かない。それを使ってかならず利権を守ろうとし、守れるだけの資金もある。対する側には何もない。どうやってそれを覆すことができるのか。人は一度利潤を得るとますます利潤を欲しがるのが性だろう。


この本はコロナショックの前に書かれた本である。ネットワークは世界中をカバーしているが人の流れはリージョナルなレベルにまで落ちてしまった。そういう世界はひょっとするとこの本の登場人物が予言していた世界に近づく一歩になってゆくのだろうか。
もし、ここで政府が給付金ではなく、ベーシックインカムを導入したら公平な世界が生まれるのかもしれないような気がしないでもない。しかし、マイケル・ハートはこういった変革は社会運動が政治化して変えてゆく必要があるという。日本でもしかり、他の国でもそこまでラディカルな社会運動はおこっているのだろうか。もしくは力のある政党がそんなことを言っているのだろうか。
ひょっとして、もう少しテクノロジーが発展し、もしくは社会運動が成熟した近未来にコロナウイルスがやってきていたら一気に世界は変わったのだろうか。そんなことを思い浮かべた。

地球環境は2030年までに人類が考え方を改めないと破滅に向かうという。この本でも、このままでは2050年までこの状態が続くと資本主義は限界を迎えるのだという。
さて、いったいこの30年の間に本当に世界中の人たちはそんな大変革を受け入れることができるのだろうか。そんなに人間が賢い生物であったなら今、この時代でももっと生きやすい時代であったのではないだろうか。
おそらく僕はその頃にはこの世にいないか、生きていたとしてもそういうことが何を意味していたのかということを理解する脳細胞は残っていないだろう。
まあ、そんな先のことはどうでもいいから、それまでは飢えずに生きさせてほしいものだと思うのだ。


コメント (2)
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