相変わらず各地の札所めぐりについて書いている中、広島新四国八十八ヶ所については佐伯区にある第51番・観音寺で記事が止まっている。観音寺を訪ねたのは11月19日のこと。この時はそのまま島根に抜けて、石見地区の中国四十九薬師の札所を回った。
実は広島新四国も12月に少し進めている。ここで各地の記事が長々と続いたが、一段落したところでようやく書くことにする。まず訪ねたのは12月4日のこと。順番でいえば第52番の法眞寺だが、まず向かうのは宇品港である。
佐伯区にある第51番・観音寺でも触れたが、「佐伯区観音寺」とともに「元宇品観音寺」というのがある。広島新四国の札所としては元宇品から佐伯区の観音台に移った形だが、寺そのものは残っているし、せっかくなので番外編として訪ねてみることにした。
ともかく宇品港に向かおう。広電の2号線で高須から西広島まで乗り、3号線で宇品港を目指す。乗り換えが適用されるので運賃は220円なのだが、ここからが結構時間のかかるところである。紙屋町西から本通、市役所前、広電前を経由し、皆実町六丁目から宇品に向かう。路面電車もなかなかスピードが出ない乗り物で、西広島から宇品に行くだけで1時間近くかかる。まあ、休日に乗る分にはのんびりしていいのだが(どうせならこの昭和の型式に乗ってみたかったのだが・・)。
宇品港からの眺め。この先の島々に思いを馳せる。この先の倉橋島に第58番の白華寺があるだけで、そこはクルマで行くことができる。50番台だから、そう遠くない時期に行くことになるだろう。
桟橋ではテントが出てイベントが行われている。その中を抜けて目指すのは元宇品である。見た目にはわかりにくいが、この先は宇品島という一つの島である。目指す観音寺はこの先の小高い丘の上にあり、地図を見ると島の東側、西側両方から行けそうだ。ということで海を左手に見て、東側から行く。
ちょうど船舶が停泊しているのだが、防波堤には「放置船」の警告を示す張り紙がある。勝手に係留するだけならともかく、それが放置されたままということで当局も警告を発しているようだが・・。
なお、この先にあるグランドプリンスホテルは、2023年5月の広島サミットの会場に予定されている。島でサミットを行うとは、警備のしやすさなどから伊勢志摩サミット(賢島)と同じ発想だろうが、その中でもこうした放置船がテロに使われないとも限らない。サミットを前にして、強制的に撤去するとか、何らかのことは行われるのだろう。
丘の上に寺の建物が見える。住吉神社の脇から石段を上るが、こちらは裏口だったようで本坊の庭先に出る。そこを通って改めて本堂の前に出る。
現在の札所は佐伯区観音寺であるが、元宇品観音寺にも広島新四国の立て札が残っている。せっかく来たのだからとお勤めとする。
改めて観音寺の由来に触れると、本尊の十一面観音は元々坂上田村麻呂の守り本尊で、後に源範頼の手に渡ったが、源平の戦いで西に向かう途中に行方不明となった。後に、宇品島の漁師の網にかかって引き揚げられ、それ以後、毛利輝元や小早川隆景、その後の浅野氏も船から礼拝したという。今は周囲にもマンションなどが建ち並んでいるが、ちょうど海から拝むには格好の存在だったことだろう。
ケースには書き置きの朱印も入っていた。観音寺の朱印が二つあることになるが、それもまたよいだろう。ただ、納経帳は寺の案内が書かれた専用の台紙に貼るタイプなので、元宇品についてはどうしようかと思案するところである。
玄関の横に鐘が吊るされている。「第4代平和の鐘」という説明書きがある。「平和の鐘」とは、毎年8月6日の平和記念式典で鳴らされるもので、この鐘は1965年、66年の2年間使われたとある。それまで、第3代の平和の鐘として中広の光伝寺の鐘が使われていたが、1965年に光伝寺が火災に遭ったため、代役として観音寺の鐘が使われたとのことである。ちなみに現在使われている平和の鐘は、この後に新たに鋳造された第5代のものである。
入ったのとは逆の西側が寺の正面入り口のようで、クルマで来るならこちらからである。坂道を下り、宇品島の西側に出る。ちょうど宇品港を見渡すところで、松山からの「シーパセオ」が入港するところだった。
元々の第51番を訪ねて、次の第52番・法真寺を目指す。こちらも宇品にある寺で、広電で行ってもいいのだが2~3つで下車するのも中途半端なので、直接歩いて向かうことに・・・。
例によって親善大使コボコボがチャー坊部屋を訪ねてしばかれたのかと…。
チャー坊と愚連隊の絡みはいつ頃に?