生ける水の川

 「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。
 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。
 このことばを聞いて、群衆のうちのある者は、「あの方は、確かにあの預言者なのだ。」と言い、またある者は、「この方はキリストだ。」と言った。またある者は言った。「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。」
 そこで、群衆の間にイエスのことで分裂が起こった。」(ヨハネ7:37-43)

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 「生ける水の川」が流れると、どうなるのだろう。
 いきいきと元気になるのだろうか。
 だが、聖書や十字架とは全く無縁であっても、いきいきした人や元気な人は、数限りなくいる。
 国会議員の元気さといったら、どうだろう。
(私はあの方々の元気さだけは、妙に感心している。)
 そして、いきいきとか元気さを求めるならば、運動したり栄養のある食事を摂ったり、あるいは臨床心理等の手を借りれば、まあ、そうなるだろう。

 「生ける水の川」は、そのような世にあるものとは異なる、けれども本質的に人間が必要としているものだ。
 それを「御霊」と呼んでいる。
 「渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」とイエスが仰るのは、この御霊についてである。
 そうすると、イエスの下に来るために、まずは「渇いている」ことの自覚が必要になってくる。
 しばしば「こころの飢え渇き」と言われている、それだ。
 「こころの空洞」とか、他にも言い換えることができると思う。

 そしてイエスの下に来て、「わたしを信じる」とき、生ける水の川が渇きを潤し空洞を埋める。
 そしてその水は、枯れずに流れ続ける。
 群集がイエスを「この方はキリストだ」、いや違うと分裂を起こすが、イエスを信じる者にとっては、イエスはキリスト以外の何物でもない。

 イエスを信じる力もまた、この御霊によって与えられる。
 というのも、御霊(聖霊)について、イエスは次のように仰っているからだ。
 「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)
 そして、御霊の御性質については、
 「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3:8)とイエスは教えてくださっている。
 人の思いや力でどうこうなるようなものではなく、ただ神の恵みによる。

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そうであっても

 「まことに私のいのちは悲しみで尽き果てました。
 私の年もまた、嘆きで。
 私の力は私の咎によって弱まり、
 私の骨々も衰えてしまいました。
 私は、敵対するすべての者から、非難されました。
 わけても、私の隣人から。
 私の親友には恐れられ、
 外で私に会う者は、私を避けて逃げ去ります。
 私は死人のように、人の心から忘れられ、
 こわれた器のようになりました。
 私は多くの者のそしりを聞きました。
 「四方八方みな恐怖だ。」と。
 彼らは私に逆らって相ともに集まったとき、
 私のいのちを取ろうと図りました。

 しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。
 私は告白します。「あなたこそ私の神です。」(詩31:10-14)

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 ダビデの賛歌。

 ダビデの生涯については史書をご覧頂くとして、いつもサウル王に追いまとわれ、イスラエルの王となってからも裏切りに遭ったりと、波瀾万丈の生涯を送った。
 その波瀾万丈の生涯を支えたのが神への信仰で、ダビデはたくさんの詩を残している。
 上の詩も、そのひとつ。
 四方八方が行き詰まったかのような詩だ。
 そうであってもダビデは言う。「あなたこそ私の神です」。

 しばしば耳にするのが、ひどい境遇に置かれたとき、なんで神はこんな境遇に置くんだ、神なんかいるものか、というもの。
 これは発想が逆さまで、神は自分の幸福のため「だけ」に存在し、そのような神だから信じる、というものだ。
 これを御利益の神という。要は偶像だ。
 「いない神」なので、そのような「神」によりかかっても、たしかにひどいだろう。
 神が全世界を司っているので、ダビデが四方八方行き詰まっても、それすら神がなされたことで、何かしらの意味と意義がある。
 それでダビデは、そうであっても「あなたこそ私の神です」と言ってはばからない。

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死人が生きるとき

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。
 まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。
 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。」(ヨハネ5:24-26)

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 「死からいのちに移」る。
 「死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きる」。
 では、「いのちに移る」、「生きる」とは、どういうことであろうか。

 365日いつもほがらかで、いつも楽しい。
 気分がいいので、いつも神への讃美が絶えない。
 病にもかからず、苦労知らずだ……。

 これは実は、「生」の方ではなく、むしろ「死」だ。
 「死」の様相は、もっと他にもあると思うが、上に書いたようなものは、「死」の最たるものだろう。
 見捨てられた、とさえ言ってもいい。

 「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」(ヘブル12:5-8)

 そういうわけで、「懲らしめ」、試練の類は、「いのち」を与えられた「わが子」の特権といってもいい。
 「いのち」に移っている者には、神がその愛する子に訓練を課す。
 彼は「死人」と違ってたくましいので、忍耐することができる。
 その訓練とは、彼を御国によりふさわしい者とするために施されるものだ。
 この世を渡りやすくするためのものではない。

 ふつうならば「365日いつもほがらか」の方がいいと思うだろう。
 それも含めて、みな「死人」だ。
 「死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」
 イエスの御声が聞こえると、生き返り、価値観が反転する。
 「いのち」の素晴らしさが、「いつもほがらか、苦労知らず」の価値観をはるかに上回ってしまう。
 なにより、「さばきに会うことがな」いという、大きな安心感のもとにある。
 だから、自身について力強くあることができる。

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悩む詩人

 「私の敵は一日中私をそしり、
 私をあざける者は私を名ざして毒づきます。
 これはみな、私が、パンを食べるように灰を食べ、
 私の飲み物に涙を混ぜ合わせたからです。
 それはあなたの憤りと怒りとのゆえに、
 あなたが私を持ち上げ、投げ出されたからです。
 私の日は、伸びていく夕影のようです。
 私は、青菜のようにしおれています。」(詩102:8-11)

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 ひさしぶりに詩篇から。
 この102篇の枕には、「悩む者の祈り。彼が気落ちして、自分の嘆きを主の前に注ぎ出したときのもの」とある。

 涙を流しつつ灰を食べる詩人は、神への悔い改めをしているのだろう。
 悩みの末に気落ちしてしまったからなのだろう。
 だが、何に悩んでいるのかまでは分からない。
 詩人は自分のその悩みを、神の怒りと捉えている。
 それで、神に悔い改める。

 そのような詩人の姿を見た「敵」は、詩人をそしりあざけり、名指しで毒づく。
 「敵」というのがどのような人物なのかは、やはりよくわからない。
 ひとりなのか多勢なのかも、分からない。
 ただ、そしりあざけるやつは確かに「敵」といってよい。
 そして、悔い改めたりするようなタイプの人に敵対する人というのが、やはりいるものである。
 その「敵」に、詩人はされるがままになっている。
 そういうことも全て含めて、「あなたが私を持ち上げ、投げ出されたから」起こることなのだろう。
 詩人は、自分のたそがれ、勢いのなさを、ただ神に訴える。

 神が詩人に与えた悩み、試練を、詩人はじっと忍耐している。
 だが詩人は、神に信頼している。
 この詩は、試練からの解放は詠まれていない。
 だが、神はある時、この詩人を悩みから解放してくださるはずだ。
 そのとき詩人は、今までよりもさらに神のそば近くで神を讃美することだろう。

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招待

 「イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。
 イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。
 すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」
 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
  『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:9-13)

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 上の聖書箇所の時代、パリサイ人やサドカイ人が世の支配階級であった。
 彼らは「正しい人」なのではなくて、「正しい、と思いこんでいる人」にすぎない。
 イエスは、上のマタイのような、「正しい人」から虐げられている取税人、罪人を招くために、この世に来られた。

 イエスは罪人を招く。そして今も、招き続けている。
 罪人を教えるのではない。
 そうではなく、罪人とただ共にいることによって、彼らを解き放って救うのである。

 パリサイ人は弟子に「なぜ、あなたがたの先生は、……」と言うのだが、その問いに対しイエス本人が直接返答する。
 イエスは耳が異常なほど鋭かったのだろうか。
 そうではなく、パリサイ人がこれみよがしに聞こえるように言ったからだろう。
 パリサイ人の「正しさ」というのは、所詮そんなものだ。

 これみよがしに言ってのける行いの醜さに気付いて愕然としてこそ、イエスに招待されたのだ。
 そのとき、「正しい」と思いこんでいたことが恥ずかしくなる。

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「『信じる』と『信じる』

 「このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。
 あかしするものが三つあります。
 御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。
 もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。
 神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。」(1ヨハネ5:6-10)

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 「神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています」。
 キリスト・イエスを信じているのは、「このあかし」を持っているからだという。
 「このあかし」とは何であろうか。
 「人間のあかし」などではない。
 人間のあかしに遙かにまさる神のあかしは、それこそ御子をあかししている。

 「あかしするものが三つあります」。
 「水」とは、バステスマのヨハネのそれ。
 「血」とは、イエスの十字架。
 イエスの公生涯は「水」に始まり、「血」で終わる。
 そしてこのイエスが神の御子であるということを、御霊があかしする。
 これが、上に書いた「神のあかし」である。

 「信じる」ということばは、広範な含みを持っている。
 例えば私は、10年後も今の生活とおんなじであろう事を、何の根拠もなく、しかし何の疑問も抱くことなく信じている。
 株の売買をする人というのは、それで儲かるのだと信じて商いするのだろう。
 あるいは、「あの人を信じる」。
 はては、来シーズンは鹿島アントラーズが優勝すると信じるとか。
 まだまだ挙げることが出来るのだろうけれども、これらの膨大な「信じる」は、「神のあかし」によってイエスを信じるのとは、全く異なる。
 前者は、人間的思考、あるいは「人間のあかし」によって妥当性を見いだしたということ以上のものではない。
 それに対し後者は、「水」、「血」そして「御霊」をいやが上にも刻み込んで下さる神の力に依る。

 言い換えると、イエスを信じるということは、ただ神の恵みによって初めて産声を上げるものである。
 だから信仰というのは、サッカーチームのファンクラブに入るようなものとは全く異なる。

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キリストの権威

 「イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」
 イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」
 しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。
 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」
 イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」(マタイ8:5-10)

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 百人隊長のしもべを癒す記事。
 百人隊長というのは、今風に言うと小隊長といったあたりか。

 百人隊長は、百人の上に立つ。
 彼が部下に「行け」と命ずれば、その部下はきびすを変えて行く。
 彼が別の部下に「来い」と命ずれば、その部下は、やはりきびすを変えて彼の下に来る。
 なぜ部下達は、かくも言うことに従うのだろう。
 それは、この百人隊長よりも更に上の者(多分、千人隊長)から、権限を与えられているからだ。
 そして、この百人隊長もまた、千人隊長の命令には従うのである。
 だからこの百人隊長は、「行け」とか「来い」という言葉の権威をよく知っていた。
 ただ自分の言葉というのは、それに従わなかったら鞭と牢屋が待っているということが権限の源泉であるにすぎない。

 「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから」とイエスに願う百人隊長。
 イエスの言葉だけを願う。
 イエスはキリストであり、そのキリストの言葉であれば、権限の源泉など問うまでもなく、万物が従う、そう信じているから、イエスに言葉だけを願う。

 そのような信仰に、イエスは驚く。
 そして仰る。
 「わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません」。
 いや、なんのことはない、イエスをキリストと信じているという以上のことではない。
 ただ、そのキリストの(言葉の)権威ということを、この男ならではの理解でイエスに言い表した。
 そしてその理解は、その通りだ。
 キリストはあらゆる権威の源泉である。
 イエスの言葉は、いともたやすく中風のしもべをいやしてしまう。

 この百人隊長の単刀直入な信仰は、イスラエルでごく普通に見られる「信仰」とは全く違っている。
 そして、百人隊長の信仰が、イエスを驚かせた。

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こっぱみじん

 「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイ7:24-27)

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 山上の説教の最後。

 イエスが仰るように、「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行」ってみよう。
 どこまで行うことができるか。
 もしできたら、それは「岩の上に建てられていた」家になる。

 どこまでも試みていって、そうしてどうしても出来ない、という地点にまで追いつめられたときに、暴風雨と洪水の前にあっけなく倒れる。
 それも、こっぱみじんにひどく倒れる。

 鉄壁の家は、律法を完璧に守り仰せたときの、文字の上に建つ安心感だ。
 自分はどの条文にも全く抵触しておりませんゆえ、神がお認め下さいます、まあ、そのようなものだろうか。
 もしそうであるならば、イエスの十字架は、その人には無関係だ。

 イエスの十字架というのは、人間イエスの肉がこっぱみじんに倒れてしまったと形容できる。
 人間が持つその罪深い「肉」( human nature )を、代わりに処罰してくださったのである。そして、その処罰が認められてイエスは復活する。
 このイエスを信じるならば十字架の意味が明瞭になり、罪赦されて「いのち」を得る。

 文字で出来た鉄壁の家にこもるのではなく、自身が生ける神の宮(2コリント6:16)そのものになるのである。
 そのためには、山上の説教の行いをとことんやってみた末、できないと分かってこっぱみじんに砕け散る必要がある。

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イエスの癒し

(1)
 「この人たちが出て行くと、見よ、悪霊につかれたおしが、みもとに連れて来られた。
 悪霊が追い出されると、そのおしはものを言った。
 群衆は驚いて、「こんなことは、イスラエルでいまだかつて見たことがない。」と言った。
 しかし、パリサイ人たちは、「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ。」と言った。」(マタイ9:32-34)

(2)
 「それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。
 「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。
 しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。」(マタイ11:20-22)

---

 イエスは、病人、皮膚病の人、目や口や耳の不自由な人、さらに悪霊につかれた人々をお癒しになった。
 それは、かれらをかわいそうに思ったというのもあるだろうけれども、それよりも、キリストが来られたということを明確に知らせるためだろう。
 すなわち、癒しそのものが福音の知らせである。

 癒しを見た群集は驚く。
 「こんなことは、イスラエルでいまだかつて見たことがない」。
 「こんなこと」、それは一体何を意味するのか、群集には結びつかない。

 そんな状況に、さしものイエスも憤るのである。
 「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。」
 ツロやシドンといった昔の町々は、イエスの癒しを見てはいない。
 一方、コラジンやベツサイダ(の人々)は、イエスの癒しを見て驚嘆する。
 ところが、驚嘆するだけで何一つ悟ることがない。
 荒布をまとって灰をかぶり悔い改めることがない。
 キリストが、今ここにおられるというのに。
 それで、イエスは人々の頑なさに憤っている。

 救いが今、ここにやってきたというのに、そのことに全く気付かない。
 それはあまりにも明らかであるのにもかかわらず、認めようともしない。
 復活のイエス・キリストは、今も風が吹くように、様々な人を訪れている。
 それがキリストの到来だと分かる人の方が、幸いなのだろう。
 そのときそうと分かるために、聖書という書物がある。

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汚れの系図

 「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。
 アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、
 ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、
 アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、
 サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが 生まれ、オベデにエッサイが生まれ、
 エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、
……
 ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。」
(マタイ1:1-6,16)

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 イスラエルの民は系図を非常に大切にすると聞いた。
 それで、マタイ福音書の冒頭に、イエスへと至る系図が書かれたのだろう。
 この系図の中には、まあ何の意味もない固有名詞もある。たとえば「エスロン」とか。
 だが、キーパーソンといえる固有名詞が多い。

 まず、アブラハム。
 全てのイスラエルの民は、信仰の父アブラハムを、父として持つ。
 イエスもその例にもれませんよ、上の系図はそのことを言い表す。
 「ユダに、タマルによって」、タマルはユダと近親相姦してしまう(創世記38章)。
 ラハブは遊女(ヨシュア記2章:ただ、ラハブが遊女であるということ以上のことは、書かれていない。)
 ルツ。ルツ記のルツだが、彼女はイスラエルの民ではない。異邦人で、アブラハムを父として持っていない(モアブ人)。
 そして、「ダビデに、ウリヤの妻によって」の箇所。
 このひと言には、幾つもの意味がある(2サムエル11章-12:23)。
 ダビデは自らの権勢によって、ウリヤの妻を姦淫する。
 そして自軍の兵ウリヤを謀略にかけ、敵陣中央に孤立させて戦死させる。

 イエスはアブラハムの子孫として、受肉された。
 その肉の系図は、ダビデやソロモンに連なる威風堂々としたものというよりも、数々の罪にけがれて異邦人の血さえ混じったもので、一見、神の子イエスのまとう肉には、およそふさわしくないものと感じさせる。
 ところが神は、イエスにこの肉をまとわせられる。
 罪にまみれた肉、純血さからも程遠い。

 それは、すべての人が罪にまみれ、どの人も清くなどないからである。
 その人々を罪から救い清めるために、イエスはその汚らしい肉で覆われた。
 それは、その自身の肉を最高刑たる十字架ではりつけ、全うするということによって成し遂げられる。
 そしてイエスは復活する。
 もしその人が信じることができるならば、その人のアダムの肉は、神がお赦しになられたのである。
 この赦しを得させるために、イエスの系図は汚れがことさらに強調された。

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