十字架について今思うところ

 「さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、……。
 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」(ヨハネ伝19:23-30)

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 罪について、稚拙さを承知の上で書いてみた。
 そうすると、どうしても「十字架」、ここを避けて通ることができない。
 しかしながら「十字架について」、この最重要事項については、私は嬰児以上の者ではないことを明記する。
 その嬰児が、少しずつ少しずつこの「十字架」に向き合ってゆこう、そう思い立ち、当座思いつくことを書く試みをする。
 この「最重要事項」が本稿だけで終わるはずがないことは重々承知の上で、「今後のヒント」位にはなるだろうか…、本稿はその程度の位置づけと自ら割り切っている。

 上に「ヨハネ伝での十字架の箇所」、その聖書箇所を取り上げてみた。
 僅か8節しか、費やしていない。
 「この量」は、他の福音書においても同様のはずだ。
(パーセンテージに換算すれば、「その扱いの少なさ」は更に明確になることと思う。)
 この「ある種の淡泊な取り扱い」、これは前々から本当に疑問だった。
 教会でもらった「ルカ伝ベースの宣教ビデオ」では、十字架のシーンを痛々しく描写していた。釘を打たれるのを嫌がるイエス……。
 映画「パッション」に至っては、悪いが「福音」とは似て非なるものと考える。
(告白すると、DVDを購入してしまった。これは「処分」する。)

 ところで昨晩、私は「自らの記録」を綴る作業に着手した。
 いつ終わるとも知れぬ、密やかなる作業だ。
(もっぱら自身の「整理」のための作業にすぎない。)

 今まで、私の「悩み苦しみ」は、実にしばしば「病気」という形で現れ続けた。
 それはそれは、様々な病気…。

 「最後の1ヶ月」。
 神は「その悩み苦しみ」を、「病気」なぞというオブラートで包むことすら許さず、「悩み苦しみ」を「悩み苦しみ」として、とことん容赦なく、真っ正面から私に叩き付け続けた。
 「ヨブ記の項」で書いたとおり、それこそ「ひとりぽっちの私」に、厳父たる神は情け容赦がなかった。
(「日記」の方を2006年8月にほとんど書けなかったのは、そのことが最大唯一の理由である。)
 そうして焦燥しきった私は、最後に残った書物「聖書」に手を伸ばした。
 しかし、…なぜヨハネ黙示録の1-3章を開いたのであろうか。
 「これだ! これこそが私の求めていたもの! 求めていたものがこの広大なる世界などには全く存在せず、実に、こんなにも「ちっぽけ」な書物の中にあったとは!」
 無我夢中になって、ヨハネ伝を読み進めた。
 ひとことひとこと、それは大きく頷きつつ。
 そして、イエスの「この言葉」。
 「わたしはいのちのパンです。」(ヨハネ伝6:48)
 これぞまさしく、神が私にたたきつけた「とどめ」だった。
 そう! まさしく「イエスそのもの」が「食物」であり「飲み水」(ヨハネ伝4:14参照)であったとは!
 私はあたかも、「聖書というちっぽけな書物」の中にすっぽりと「逃げ隠れる」こと叶ったかのようであった。
 そして…、私は「死んだ」。

 さて、ほんじつ2006年9月22日。
 今日も私は生きていて、こうして何かを書き綴っている。
 だが、「死んだ」のだ。
 でも「生きている」。
 あるいは「これ」を指して「復活」と呼ぶのであろうか……、それは今の私には力量不足にすぎる課題だ。「新生」、「回心」……、様々な語句群の、一体どれに当てはまるのだろうか……。
 だが、そのようなカテゴライズ作業の類に、今の私は実に何らの意味も見いだしていない。

 そして、「死んだ」時というのは、冒頭のヨハネ伝の如く「8節くらい」の長さにすぎない。
 無論、その前の「苦しみの長さ」に比べればの話だ。
 なにしろ「大罪の処刑」なのだ、なるほど確かに最高刑たる「十字架」に相当するのも至極もっとも…。
 省みて、そう思う。
 ただ、その「十字架」の期間というのは、やはり「8節くらい」の長さ、それで済んだようだ。
(後日談というのも無論あるのだが、それはさて措こう。)

 上のヨハネ伝においても、また他の福音書においてもそうなのだが、イエスは「痛い」とか「つらい」などとは一言たりとも言ってはいない。
 昔日見た上述のビデオや映画の類とは、ここが大きく違うと私は思う。
(更に言えば、「似て非なるもの」。)
 マタイ27:50「大声で叫んで」やマルコ15:37「大声をあげて」は、果たして「苦しみ」の極大点としての「大声」なのかどうか、私には判断できない。
 あるいは「勝利の雄叫び」の類だとしたら……?
 想像し始めたら、きりがない。
 …やはり「聖書」は、「この8節」という時間帯の「イエスの心理」、その解釈を許さないように今の私は思えるのだが、どうであろうか。

 時系列は前後するようだが、「イエスはご自分で十字架を負って、」(ヨハネ伝19:17)、そう、神から課せられた使命、それが何であるかはともかく、それを、このイエスのようにしっかり背負うのみ、この意識は日に日に増している。
 イエス御自身も、仰る。
 「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:38)

 また、話は前後するが、パウロも言う。
 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

 そのとおりに、今「生きている」のは「十字架につけら」たからこそ、私も自身について心からそう思う。
 だからこそ、パウロは次のように宣言して、そして宣教を行ったのではなかろうか。
 「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。」(1コリント1:23新共同訳)
 その「十字架につけられたキリストを宣べ伝えてくれて」ありがとう、何しろこの「聖書」を遺してくれたんだ…、今の私はこのパウロにもそのように感謝している。

 「十字架」それ自体というのは、全く何の意味もない。
 実に、「単なる丸太細工」、これ以上に、何の意味(価値)があろう?
 しかしながら、「十字架にかかったイエス」、これは、間違いようもなく最重要事項(価値)だ。
 一方で、この最重要事項の扱いは「8節」程度の長さ……。
 「その前」。
 「その後」。

 「十字架とは何か」。
 この最大難問についての、些細なヒントをしたためた以上のものではない。
 ただ思う、結婚式場やホテルでの「チャペル」上部に安置された「十字架工芸」、私はこれに、全くもって何の意味をも見いだすことができない。
 そのことくらいは、ここまで書き記していって、そして自身で確認できたと思う。
 今日のところはこれでよかろう、静かに確認印を押してみる。
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