十字架のことば

 「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
 それは、こう書いてあるからです。
    「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、
    賢い者の賢さをむなしくする。」
 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」(1コリント1:18-23a)

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 「十字架のことば」とは、すなわちイエスの十字架と復活とが記されている聖書の、一つ一つのことばである。
 その「十字架のことば」は「神の力」としてその人に働き、十字架と復活の意味を飲み込ませてその人を救いに至らせる。
 この救いは、知識、学問また議論等によっては、けっして得ることはできない。
 ただ恵みによって「神の力」が働くことによってのみ、救われる。
 その恵みとは「神の知恵」である。
 知識、学問、議論、すなわち人間の力が遙かに及ばない領域のもの、それがこの恵みである。

 さて救いとは、そのことを公に証明できる類のものではない。
 「しるし」が伴うわけでもない。
 説明しきれず、よって説得させることもできない。
 復活のキリストと出会ったパウロは、それで愚かしくも「十字架につけられたキリスト」をただ宣べ伝え続けたのだろう。

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