有罪(guilty)とされた罪(sin)

 「そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」
 イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」
 こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」(ヨハネ19:10-12)

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 ピラトの権威というのは、ローマ法適用についての権限を一手に握っていることにある。
 この権威の源泉は、はローマ法を発布しているカイザルである。
 「釈放する権威」/「十字架につける権威」。
 「釈放する権威」は、not guilty 。
 「十字架につける権威」は、guilty に、それぞれ対応する。
 つまり、法律に照らして無罪か有罪か、ピラトはそれを問題としている。
 ところがイエスは仰る。
 「ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」

 「わたしをあなたに渡した者」というのは、「今、『私たちは目が見える。』」(ヨハネ9:41)と思ってイエスを迫害する人々のことを指す。
 イエスの数々のわざを見ても罪(sin)を悔い改めることなく、かえって目が見える(罪はない)と言ってはばからない。
 それどころか、イエスの群集への人気をねたんで亡き者とするために捕らえてしまう。この行為も、自分たちは目が見えてやっていると思っている。
 さらに、「自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」とか。心にもないことまで言ってのけて、ピラトの心証へと訴える。
 そういうわけで、この人たちこそ、最も罪(sin)が大きい。

 イエスが問題としているのは、この sin であり、ピラトが問題とする guilty ではない。
 sin の判断基準は、神と神の律法である。
 だからイエスは、ピラトに対して「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。」と仰った。
 御自身にとって、カイザルという存在は何の影響もない。
 神の律法の前には、すべての人が罪深い(sin)のである。
 イエスを捕らえた人たちは、自分は律法を守っていて罪はないと思っている。
 そのことこそ、盲目、目が見えていない、とりわけて罪深いことのなによりの証左なのだが。

 さて、ではなぜすべての人は罪深い(sin)のであろうか。
 それは、すべての人がアダムの違反(sin)を引き継いでいるからである。
 アダムの罪深い肉を、誰もが持っている。
 その罪深い(sin)肉を、guilty (有罪)とされることによって、それも最も重い十字架刑とされることによって処理してしまおう、これがイエスの十字架である。
 この十字架を信じる者は、罪深い肉を持ちつつも、イエスの十字架と復活の故に、その肉が赦されている。
 罪なき者とみなされる。
 つまり、実際にはそこから程遠いにもかかわらず、神の律法を守っている(義)とみなされる。
 この、信じると言うことは、ただ神の恵みによる。

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