律法と御霊

 「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。
 もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。
 罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。
 そして、かつて栄光を受けたものは、このばあい、さらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているからです。」(2コリント3:6-10)

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 古い契約と新しい契約ということについて。

 古い契約とは、「石に刻まれた文字」、すなわち十戒をはじめとする律法群である。
 この文字の役割は、その人を殺すことにある。
 つまり罪深きこの肉体に律法が照らし合わせるときに、どうであっても罪に定められて、「死の務め」に付き従うことになってしまう。
 それでも神が与えた絶対的な善の体系は、モーセの顔を覆わざるを得なかったほどにまばゆく輝いている。

 一方、新しい契約とは、キリストが十字架に死んで肉を処理して復活なされたことに由来する御霊についてのものである。
 御霊は、死んでいた人を生かす。
 初穂であるキリストに続く復活をする。
 これが、キリストが下さった新しい契約である。

 一度は古い契約に基づく死に行き着く必要がある。
 というより、律法は死に追い込んでいる。
 そして新しい契約がやってきたとき、その人はよみがえる。

 例えていうなら、律法は月で御霊は太陽だ。
 夜、月は光り輝いている。だが、太陽が昇ると、その輝きの故に月は見えなくなる。
 だが、月があること自体は代わりがない。

 キリストの栄光に比べると律法はめだたないのだが、律法が死へと追い込んで、恵みの御霊がその人をよみがえらせる。

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