神の御名の冒涜

 「それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です。」と言った。
 祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ。」と言った。ピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません。」
 ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」
 ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れた。」(ヨハネ19:5-8)

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 祭司長たちとポンテオ・ピラトとの駆け引き。

 祭司長たちは言う。
 「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」
 これは、新改訳聖書の注釈によると、旧約聖書・レビ記にある次の律法を指しているようだ。
 「主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその者に石を投げて殺さなければならない。」(レビ24:17)
 つまり、イエスは神の子を自称して神の御名を冒涜した、ついては律法に従うと最高刑の石打ちの刑になるのだ、そういう主張らしい。

 イエスが「神の子」と言うことは、果たして神の御名を冒涜したことになるのであろうか。
 それどころか、イエスは徹底的に父に従っている。
 病や不具を癒すわざ、五千人の給食、そして死人ラザロのよみがえり。
 だが祭司長を筆頭とする人々は、それらのわざを目の当たりにして、かえってイエスを憎んだ。
 それは恐らく、自分たちの権威失墜を恐れたからなのだろう。
 イエスに人々が向けば、自分たちに従う人がいなくなってしまう。
 それでイエスを亡き者としたい。

 「神の子」の自称が律法違反というのは、だから口実にすぎない。
 もっといえば、彼らは律法を我田引水に利用しているだけで、神の完全なる律法を遵守しようとなど、思ってもいない。
 律法など、人を裁くための道具でしかないのだ。
 そういうわけで、祭司長サイドこそ神を敬っておらず、聖なる御名を根源的に冒涜している。

 イエスが逮捕され、そのイエスの十字架での死を前にして、神の秩序・律法が機能停止してしまっている。
 先日、「律法と十字架」という記事を書いた。
 十字架というのは、神がそこで死ぬのだ。
 そうすると、あの十字架を前に神の律法も一時的に死文化していた、それ程までに「主の御名」が冒涜されたのだろう。

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[付記]
 相変わらず難しいテーマです。
 何か分かるといいのですが。

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