イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
御名のため
「主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、
私を義の道に導かれます。」(詩23:1-3)
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ひさしぶりに詩篇から。有名な23篇。
「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」
神はその人のたましいを生き返らせ、義の道へと導く。
だがそれはいったい、何のためなのか。
「御名のため」だからである。
その人のためとかその人のことを思って、ということでは、ない。
「御名のため」。
このみ言葉は、旧約聖書に頻出する。
神ご自身のために、というくらいの意味だろうか。
そうすると、神がその人のたましいをお救いになるのは、その人を思ってのことなどではなく、神御自身のためだ。
逆に言うと、その人の救いというのを、神はどうしても必要とされている。
これが「御名のため」であり、言い換えると神の愛、その形ではないだろうか。
また、その人の側から見ると、この出来事は神の恵みだろう。
神は御名のために、この世に神の子・イエスを送られた。
神は御名のために、ひとり子イエスを十字架に処した。
神は御名のために、イエスを復活された。
その復活のイエスは御名によってある人に現れてその人を救い、義の道へと導いてゆく。
それは、私たちを救いたいからではなく、私たちは神にとって救われる必要が大きいからである。
罪深い肉にあって私たちのたましいがたましいがうめくことを、神はよしとしないのだ。
上の引用聖句、詩の前半部分は、ひとことでいいくるめると平安ということ。
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私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、
私を義の道に導かれます。」(詩23:1-3)
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ひさしぶりに詩篇から。有名な23篇。
「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」
神はその人のたましいを生き返らせ、義の道へと導く。
だがそれはいったい、何のためなのか。
「御名のため」だからである。
その人のためとかその人のことを思って、ということでは、ない。
「御名のため」。
このみ言葉は、旧約聖書に頻出する。
神ご自身のために、というくらいの意味だろうか。
そうすると、神がその人のたましいをお救いになるのは、その人を思ってのことなどではなく、神御自身のためだ。
逆に言うと、その人の救いというのを、神はどうしても必要とされている。
これが「御名のため」であり、言い換えると神の愛、その形ではないだろうか。
また、その人の側から見ると、この出来事は神の恵みだろう。
神は御名のために、この世に神の子・イエスを送られた。
神は御名のために、ひとり子イエスを十字架に処した。
神は御名のために、イエスを復活された。
その復活のイエスは御名によってある人に現れてその人を救い、義の道へと導いてゆく。
それは、私たちを救いたいからではなく、私たちは神にとって救われる必要が大きいからである。
罪深い肉にあって私たちのたましいがたましいがうめくことを、神はよしとしないのだ。
上の引用聖句、詩の前半部分は、ひとことでいいくるめると平安ということ。
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