カイン

 「人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。
 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。
 また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。
 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。
 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。
 あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。」(創4:1-8)

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 アベルとカインの話。

 カインのささげ物は、顧みられなかった。
 弟アベルのささげ物だけが、主の目に留まったのだ。
 「それで、カインはひどく怒り、顔を伏せ」る。

 この怒りは、誰に向けられたものだろうか。
 弟アベルだろうか。
 ありていに言えば、自分を顧みようともしなかった神に対する怒りだろう。
 アベルのささげ物は目に留めて、一方自分のささげ物には目を向けもしなかったこと、これはカインにとって理不尽極まりなかった。
 その理不尽さが、カインの神への怒りの根底にある。

 主はカインに仰る。
 「あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる」。
 正しく? では何に照らして正しいとされ、あるいは誤りとされるのだろうか。
 神に照らして、だ。
(このころは、文字化された律法がなかった。)
 とすれば、カインは出直して、弟アベルのように最善をつくしたささげものをするならば、今度は神に受け入れられてカインも理不尽感を解消することができただろう。
 だが、カインはそうすることなく、主に向けることのできない怒りを弟アベルに向け、野で殺してしまう。
 そして私たちは、このカインの末裔である。

 カインの罪深さは、ささげ物に手を抜いたことにあるのでも、神に怒ったことにあるのでもない。
 神からアドバイスをいただいたにもかかわらず、それに従って事を行わなかったことが、罪深い。
 アダムの肉を持つ人間は、このように神に反逆する性質を持っている。
 結局カインは、何の罪もない弟アダムに八つ当たりを起こして殺してしまうが、この殺人は神に反逆した当然の帰結、それ以上でもそれ以下でもない。

 この反逆の性質は、神の子イエスを十字架につけて殺してしまうほどだ。
 人間が神を殺したのだ。
 ところがイエスはそのことを逆手にとって、御自身のアダムの肉を十字架に残して復活して、人々をそのアダムの肉の罪深さから解放してしまう。
 そのことを信じるならば、それが救いとなる。
 アダムの肉を持っていても、カインの末裔であっても、そのままで赦されている。
 ここでいう信仰による解放とは、このようなものだ。

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